『琉球伝・武備志四十八図』の解析

『琉球伝・武備志』
第1図 鐘鼓斉鳴手敗/千斤墜地手勝
彼:鐘鼓斉鳴手とは、鐘や鼓を一斉に打ち鳴らしながら襲い掛かる、敵の一斉(連続)攻撃を表しています。
我:千斤墜地(武備志・白鶴拳起源の章では落地生根) とは、鼠径部を緩め(開き)、膝を外に張り、重心を充分に落とした状態を示しますが、体幹は上下左右動を自在にできる必要があります。故に千斤墜地(落地生根)は、随意に運動する「勁」(パワー)を伴っています。この勁(パワー)は、大地に根を張る如く足下から吸収し(大地との拮抗力)、腰背を通じて生成されるため、通臂(背)を意味します。これらは、「線」「鉄線」と言われる勁の道筋を形成する重要な身体操作です。分解技法としては鶴の開合翼と纒手がポイントです。
南拳白鶴出門の構え「千斤墜地」が、『琉球伝・武備志』の第1図に取り上げられているあたりが、那覇手・剛柔流秘伝書として珍重された由縁かと思います。言わずと知れた、「セイユンチン(随・運・勁)」の出門の構えです。北拳の代表格である宋太祖三十二勢長拳第1図の「懶扎衣」と同義となります。
日本の陰流では「无手(むて)構」、新陰流では「一円の構」に相当する無構えです。宮本武蔵は五輪書・水之巻でこれを「秋猴の身」と呼んでいます。「秋猴の身とは、手を出さぬ心也。敵へ入身に、少も手を出だす心なく、敵打つ前、身をはやく入心也。 手を出さんとおもえば、かならず身の遠のく物なるによって、惣身をはやくうつり入心也。手にてうけ合する程の間には、身も入安きもの也。」と説いています。
 北派拳術と南派拳術、琉球唐手や日本武術にもつながる『琉球伝・武備志』の歴史的・技術的考察が私の研究のテーマです。
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『九天風火院三田都元帥』=『雷海青』について

雷海青は、唐代玄宗皇帝(685年~762年)に仕える楽人でした。安史の乱(755年)は唐の節度使の安禄山が起こした反乱です。反乱軍は一時都の長安を陥れ、唐は滅亡寸前になりましたが、安禄山が内紛で殺され、その仲間の史思明が反乱軍を指揮したので、「安史の乱」と呼ばれます。ウイグルなどの支援を得た唐が立ち直り、763年、反乱軍を鎮圧し、収束されました。乱の直接的原因は、唐の玄宗の寵愛を受けた楊貴妃とそのおいの楊国忠一族と対立した節度使安禄山が反乱を起こしたことでしたが、背景には唐の律令制度の行き詰まりという社会不安がありました。唐はその後も1世紀に渡って存続しますが、安史の乱以後は各地の節度使(藩鎮)が自立し、朝廷の力は弱体化しました。雷海青は、長安が陥落後、安禄山(705年~757年)に囚われ音楽を強要されましたが、楽器を投げ捨て長安の方向に向かって慟哭したため八つ裂きにされました。玄宗皇帝の子息が粛宗(711年~762年)となって安禄山を討ち果たした後に、粛宗皇帝は節に殉じた雷海青を太常侍卿に追封しました。時代を追うにつれて、道教的位が上げられ、遂には『九天風火院三田都元帥』となって、福建長楽県の氏神となりました。当初は芸能神であったのですが、『琉球伝・武備志』の中では武神として神格化されました。技芸上達の意味で祀った可能性もあったと思います。楽人が琴を持ったポーズと武神のポーズを重ね合わせると成程納得です。
(中国・琉球武芸史参照)
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