『琉球伝・武備誌』エピソード113

『武備志』(1621)
著者の茅元儀(1594~1644)は明代の万暦年間の帰安の出身で、代々にわたる学者の家に生まれ、福建副使であった祖父の茅坤が蔵する兵書を、幼少の頃より読みふけることを楽しみとして成長しました。古今の用兵の方略を熟知していた彼は人から「兵学百科」と称されました。彼の胸中には無数の兵書が記録されており、書を著し、自説を立てて鬼神の如く執筆し、さらに陣営にあって作戦を練り、軍事作戦を計画するのに参加し、そのうえ戦場に出て敵を退け、勇気と知略は抜群でした。天啓初(1621)に満州族が二度にわたって中国に侵入した時、朝廷の会議は意見がまとまらず、防衛もいい加減で不適当なものであり、国境よりも、国内の守備を固めることが主論となっていましたが、茅元儀・袁崇煥・鹿善継の三人が防衛を強調し、ついに茅元儀が寧遠に派遣され、防衛は堅固になりました。また東部方面に視察に出て敵地に廻り込み、鹿善継等に防衛の方法を指導して、「向こう三年間、敵は侵入して来ない」と予言しましたが、不運にも各地で防備が破られ、茅元儀は枢密使を惑わせたことと合わせて引責退官し、辺境の荒野で無念の死をとげました。
茅元儀は、1621年に、歴代の兵書と当時の辺境の形勢を点検し、十五年にわたって心血をそそぎ、中国古代の厚さと大きさが最大の総合的な兵書を編集、著述しました。全書で240巻、約200万字、附図730余幅で、歴代兵学の成果を全収録しており、中国兵書の最高峰と言えるものです。この本こそが『武備志』です。『武備志』は全書で「兵訣評」(1~18巻)孫子・呉子などの過去の兵書の要点と評論、「戦略考」(19~51巻)春秋から元代までの膨大な戦争の実例を挙げての戦略論、「陣練制」(52~92巻)布陣と実戦的訓練について、「軍資乗」(93~147巻)営・戦・攻・守・水・火・餉・馬の8項目から軍事技術、兵器、築城など、占度載(148~240巻)天文気象と卜占についての五つの部分から構成されています。この中の「陣練制」は「陣」と「練」の二部から構成されていて、前者は「陣法」を論じ、後者は兵士の選抜と訓練を論じ、一般に使えることを強調しています。「練」の部分はさらに選士、編伍、賞罰、旗鼓、教芸など五項目に分かれていて、すべて唐、宋、明の兵書の律令のなかから選ばれ、兵士の選抜と訓練の方法、すでにいる兵士の選抜と淘汰、車兵・歩兵・騎兵・水兵の編成、賞罰の判例、教練の方法、兵器の訓練などの内容を詳しく記しています。この中で84~92巻にかけて、弓・弩・剣・刀・鎗・鈀・牌・筅・棍・拳・比較などの武術を解説しています。『武備志』はただ歴代兵学の総結であるだけでなく、多くの新しい見解も提出しており、たとえば兵士の訓練を強調しています。兵器が日増しに進歩している状況下においても、兵士の素質の向上は往々にして戦争の勝敗を決定したからです。『武備志』の拳の項には、ほぼ前述の『紀効新書』を踏襲して、「拳経」の中から宗太祖三十二勢長拳を転載しています。棍法の部には、『少林棍法闡宗』を図示して収録しています。そこには「全ての武術は棍法(棒術)を宗(大本)とし、棍法は少林を宗(大本)となす」とあります。刀法は「日本陰流刀法」と戚継光演の「倭寇刀法」をとりあげています。鈀法(三叉鎗)は紀效新書の「剣経」に七勢を加えたものです。剣法は「剣訣歌」「朝鮮勢法」を編成しています。鎗・牌・筅・比較はすべて『紀効新書』からとっています。
有能な武将であった茅元儀の死後二十年を待たずして、明王室は滅び、満州族によって清朝が成立し、『武備志』は焚書となりました。
(「図説中国武術史」「中国武術史」参照)

『琉球伝・武備誌』エピソード112

『少林棍法闡宗』(1616年)
『長鎗法選』(1621年)『単刀法選』(1621年)
『耕餘剰技』(1621年)
著者の程宗猷(1561年~不明)は字を沖斗といい、安徽省で生まれました。幼い頃から武を学ぶことを好み、「凡聞名師、不憚遠訪」とあるように、嵩山少林寺で根法を、また浙江省の武師劉雲峰から刀法を学び、その後河南の名手李克復から槍法を学びました。故郷に帰ってからは武を教えました。彼は数十年の鍛錬の経験を、上掲の『耕余剰技』という本にまとめました。その著書は、『少林根法蘭宗』、『単刀法選』、『長槍法選』と『蹶張心法』をまとめたものでした。この書は少林寺の棍法を伝えるものと言われ、小夜叉・犬夜叉・陰手・破棍などの棍法の型の棍譜・路線と、棍法の勢五十五図、及び歌訣五十二首を載せていて、巻末に「問答篇」があり、巻頭に「紀略篇」「総論」「名棍源流」などがあって、伝説上で少林棍法を伝えたとされている緊那羅王の像も載っています。『少林棍法闡宗』の中では、少林根法と兵法には暗合しているところがあり、それは奇正・虚実・衆寡・強弱の変化にみることができます。さらにまた『正気堂集』の『剣経』から、かなりの影響を受けていることがわかります。
程宗猷の生涯にわたる経歴は、戚継光の場合とは完全に異なります。戚継光は兵を率いる戦いの名将であり、実践目的の兵土の訓練に優れていたので、見栄えの良いい拳法は体質増強の手段だけだと考え、単舞や動き回る型の練習については反対していました。これに対して,程宗猷は武師であり、弟子を集めるのが本業だったので、必ず人が武を学ぶことに興味を抱くことを重視しました。その為、彼は実践用ではなく、単舞、対舞、群舞(集団練習)を教え、格好の良さを強調しました。彼は「昔の刀法の一つ一つの動作は全て敵を防ぐことが出来た。組み手をよく練習することで自由に進退することが出来る。」と考えました。しかし、彼の話は 実践的知識に欠けていたと言わねばなりません。敵と対戦する時,組み手通りに動くことは不可能だからです。彼が根法,刀法,槍法を組み手の型にまとめたのは、練習者の興味をひき、練習し易くする為にすぎなかったのです。
(「図説中国武術史」「中国武術史」「中国明代の武術書に関する史的考察」参照)

『琉球伝・武備誌』エピソード111

『武芸諸譜翻訳続集』(1610年)
1610年に光海君(1608~1623年、李氏朝鮮第15代国王)の命により、崔起南(1586~不明)が『武芸諸譜続集』を基にハングル訳したものが『武芸諸譜翻訳続集』です。以前の十八巻本には欠けていた、日本剣術、対倭寇戦術、日本国情などを加筆した『紀効新書十四巻本』(1588年)を引用して「日本考」四巻が付け加えられ、日本の地理、風俗、戦術、剣術などを解説しました。17世紀ハングル文法の例としても史料的価値は高いものです。ここまでの朝鮮の兵書編纂は、対日戦での苦渋の記憶から、日本相手の軍隊強化が目的であり、兵卒向けに絵図を多用したハングル訳書籍でもそれがうかがえます。また、精神修養を兼ねるものではなく、あくまでも兵卒の軍事技術であります。ところが、1627年の丁卯胡乱と1636年の丙子の乱では、満州騎兵と火砲を主力にする清軍を相手に、大幅な戦術転換を迫られることとなりました。更に清朝の中国支配による戦争の終結で、以後一世紀に渡り忘れさられました。

『琉球伝・武備誌』エピソード110

『続文献通考』(1603)『三才図会』(1607)
著者の王圻(1529~1612年)は、上海の出身の官僚。中国・明の学者・詩人。字は元翰。『三才図会』・『稗史彙編』・『続文献通考』の編者であり、その他自らの漢詩文を集めた『洪洲類』があります。百科事典など分厚い文献の編者としては評価されていますが、漢詩人としては全く評価されておらず、四庫全書総目提要でも、「編んだ書物はでたらめな所はあるが、尽力したものだといえるだろうが、漢詩は王にとっては余事であり、評価すべきものではない」と評しています。『三才図会』は、天文・地理・人事のあらゆる事物を集めた百科事典です。三才とは天・地・人を言い万物を意味します。世界の様々な事物を、天文、地理、人物、時令、宮室、器用、身体、衣服、人事、儀制、珍宝、文史、鳥獣、草木の14部門に分けて説明しており、各項目が図入りである点が本書の大きな特徴です。『三才図会』は中国を代表する図解百科であり、わが国にも大きな影響を与え、『和漢三才図会』を生み出すことになった程の書物です。中国の伝統的図書分類で言うなら「類書」になるのでしょうが、他の多くの類書類と異なる点は、この『三才図会』は単なる事例の集積や解説だけではなく、その大部分に図版を取り込んだというところにあります。万暦という時代が、一部の知識人にのみ限られていた様々な学問的文化的事象が、より広範囲な人々に開放され受け入れられていったという状況を表す時代の共通意識であったとも言えるのでしょう。「人事部・第七巻」に武術関係が収められていて、「射法図四」「拳法図三十二」「鎗法図二十四」「棍法図十四」「旁牌勢図八」「狼筅勢図六」はすべて『紀效新書』のものを転載しています。『続文献通考』での拳法の門派解説は『江南経略』を引用しています。
(「図説中国武術史」「中国武術史」ウィキペディア参照)

『琉球伝・武備誌』エピソード109

『武芸諸譜』(1598)
1592年から1597年の文禄・慶長の役で朝鮮は日本軍の猛攻を受けました。『懲毖録』によれば「1593年夏、痔疾療養中の柳成龍を明将駱尚志が見舞い、中国兵術の習得を勧めた。そこで軍将兵70人を駱の配下10人につけて、槍、剣、狼筅などの技術を学ばせたという。」これを契機として朝鮮宮廷は1594年に訓錬都監を設立、兵の訓練と対日戦術の研究を行いました。朝鮮半島では弓術と馬術が重視され近接戦闘は顧みられませんでしたが、宣祖(1552~1608李氏朝鮮第14代国王)は、日本軍の刀槍による死傷を考慮し、中国に学んだ刀剣、槍棍の訓練を命じました。軍上層部からは弓術軽視につながるとして反対意見が上奏されています。訓錬都監の教本として戚継光の『紀効新書十八巻本』(1560年)を採用しました。著者の韓嶠(1555~1627年)は、天文、地理、卜筮、兵略のすべてに精通した優れた人物でした。翻訳対象が軍事専門著作である以上、軍事に関する各方面に通暁した人物が翻訳しなければ所期の効果を上げることが出来ないと考えられたのです。韓嶠はかつて倭寇の討伐を提案した実績があり、当時の相臣(宰相)・柳成龍と従事官であった李時発らは韓嶠を訓局郎官に推薦して『紀効新書』翻訳の作業を請け負わせることにしました。李朝の宣祖27年(1594年)、「訓練都監」が設立され、相臣の尹斗寿が訓練に関する責任を負うことになりました。尹斗寿は訓練都監に命じて殺手諸譜(すなわち『紀効新書』)翻訳させました。当時、韓嶠が提調指揮の職責においてこの翻訳作業の責任を負っていました。韓嶠は『紀効新書』の写本にある刀槍諸技の訓練方法を明らかにするため、中国の将軍(軍事訓練を担当する武芸教官)を広く訪ねて訓練を受け、また自ら兵士の訓練を視察して『紀効新書』のテキストからは解釈できなかった疑問点を解決しようと試みたのです。熱意ある韓嶠に対して中国の軍隊では多くの将軍が槍・筅・牌・棒といった諸武器の使用方法を詳細に紹介し、さらに訓練の面でも指導を行いました。例えば、万暦26年(1598年)に遊撃将軍である許国威は韓嶠に長槍の使用方法について指導していますが、この様な機会は韓嶠が中国槍法を理解する上で重要な役割を果たしたはずです。こうして韓嶠は多くの中国将兵による直接指導と各種の中国の軍事文献資料を元に1598年に「棍」「籐牌(片手盾)」「狼筅」「長槍」「鐺鈀」「長刀」の六技を抜き出し訳した『武芸諸譜』を完成させました。
1604年には内容を付け足した『武芸諸譜続集』が出ました。軍では「降倭」からの日本剣術の習得も行われていました。
(「図説中国武術史」「中国武術史」参照)

『琉球伝・武備誌』エピソード108

『陣紀』(1591年)
著者の可良臣(生没年不詳)は、明代の嘉靖から万暦にかけての人。字を惟聖、号を陳明。浙江省餘姚の出身。年若くして海戦に従事し、嘉靖間には指揮官となって薊鎮に遊撃し、やがて将軍となり戦闘から引退し、優れた戦略を行いました。年老いて侍御(皇帝の側に使える官)に任ぜられました。軍隊が急事によく働きを得ることが出来る為に、『陣紀』などの書を編集して、軍事教練の助けとしました。他に『軍権』『利器図考』『制勝便宜』等の著作があります。『陣紀』の出来上がった年代は確定できませんが、書中で戚継光が編み出した鴛鴦陣、それと閩浙で倭寇に抗戦した全体の計画と方略を引用していることから、それは『紀効新書』が世に問われた嘉靖39年(1560年)以降に書かれたと分かり、さらに張応登が万暦17年(1589年)5月に作った「跋」から、それはこの「跋」以前に書かれたと分かります。全部で4巻、66篇で、約4万8千余字です。現存しているものは万暦19年(西暦1591年)の刊本、清の嘉慶22年(1817年)の「墨海金壷叢書」本、道光年間の「珠塵別録叢書」本、道光26年(1846年)の「惜陰軒叢書」本、道光28年(1848年)の「瓶花書屋叢書」本、民国年間の「叢書集成初編」などの版本があります。『陣紀』は戦わないで敵の兵を屈服させる戦略思想を推賞しています。「威徳によって人を服させ、智謀によって敵を屈させる」ということを主張し、威徳によって人を服させ、智謀によって敵を屈させ、殺戮を行わないで、多くを投降させ、しかも敵の良将を手に入れることができるなら、その功績は不世出のものです。兵士が戦闘せず、軍隊が苦労しないで、数千里の敵地、数十万の人民を獲得できるなら、その功績は不世出です」という見解をもっています(「賞罰」)。彼は、用兵においては奇策と正攻法が変幻自在に変化し、奇策と正攻法が互いに変化し合わなければならないと主張し、正兵(正攻法で戦う部隊)・奇兵(奇策で戦う部隊)・伏兵(奇襲攻撃を行う部隊)は人の頭・手・足のようなもので、三者のうち一つも欠かせず、たとえば「三者がともに用いられ、しかもその指揮を機密にすることが、神のような不思議な変化を実現します」という見解をもっています(「奇正」)。用兵は衆寡によって違えるようにしなければならず、衆寡の使い方を知っている者が勝ち、「衆(大軍)を用いるときは、整っているべきで、治まっているべきで、分かれているべきですし、寡(小隊)を用いるときは、堅固であるべきで、軽快であるべきで、鋭敏であるべきです」(「衆寡」) 『陣紀』の軍事思想の重点は選抜・訓練にあります。その主張は、こうです。部隊を編成するときは「募集は多いことを尊び、選抜は少ないことを尊び」、狡猾な人が用いられないようにし、誠実な人が必ず選ばれるようにしなければなりません。選抜した兵士については、その特技を活用できる部署に配置しなければなりません。あわせてこう強調しています。戦争を教育する方法として、将兵を鼓舞し、戦って死ぬことを栄誉とし、逃げて生き延びることを恥とするようにします。『陣紀』の独創的なところは、それが車戦、騎戦、歩戦、水戦、火戦、夜戦、山林沢谷のなかでの戦い、風雨雪霧のなかでの戦いなど、違った状況での作戦と戦法について専門的に論述しているところにあります。明の時代とその他の時代で使われた各種兵器、城を攻めたり守ったりする道具、水軍の軍船の構造および製造法と使用法について、すべて具体的に叙述しており、これは『武備志』以外で軍事技術と使用の内容を最も多く記述している兵書であり、いくつかの内容は『武備志』も記載していないものであり、重要な参考資料としての価値をもっています。巻二の「技用篇」に射・拳棍・鎗・筅・牌・刀剣・短兵・用技などが解説されていて、当時に行われていた各門派の名称が記されています。また武術を学ぶについて『陣紀』は「技用」で次のように述べています。
「芸(武術)を学ぶものは先ず拳を学び、次に棍を学ぶ。その法に明らかなれば則ち刀槍などの諸技は特に易し、易き所とするのは拳棍が諸芸の本源だからである。」
「宋太祖之三十六勢長拳。六歩拳。猴拳。囮拳の名は殊(異)なれど、而して勝を取れば則ち一なり。温家乃七十二行拳。三十六合鎖。二十四棄探馬。八閃番。十二短は此れ又善の精なる者なり。呂紅之八下。綿張之短打。李半天之曹聾子之腿。王鷹爪唐養吾之拏。張伯敬之肘。千跌張之跌。他にも童炎甫。劉邦協、李良欽、林琰の如き流れには、各それぞれ神授有りて世に無敵を称す。然れども皆その伝を失い、而して奥所を極めるは不能なり。(後略)」
(「図説中国武術史」「中国武術史」参照)

『琉球伝・武備誌』エピソード107

『五雑爼』(1573-1620)
著者の謝肇淛(1567~1624年)は、明朝の文人、官人。字は在杭。福建省長楽県の出身。 1567年(隆慶元年)に生まれました。若い時から徐熥、徐渤、曹学佺等と結社を作りました。1592年(万暦20年)に壬辰科の進士となり、湖州、東昌推官、南京刑部主事、兵部郎中、工部屯田司員外郎を経て、1621年に広西按察使に任じられました。官位は、広西右布政使に至りました。謝肇淛はかつて詔によって、河道の治水を命じられ1年で完成させました。あわせて、その経験を『北河紀略』に記しました。彼は袁宏道から『金瓶梅』(『金瓶梅』は『水滸伝』の 第23話から27話までの武松のエピソードを拡張し、詳細にしたものであり、『水滸伝』からのスピンオフ作品です。『水滸伝』の武松の虎退治のエピソードを入り口とし、そこに登場する武松の兄嫁の潘金蓮は姦通した後殺されずに姦夫の西門慶と暮らし始めるという設定となっています。ストーリーが『水滸伝』から分岐した後は、富豪の西門慶に、金蓮も含めて6人の夫人やその他の女性がからみ、邸宅内の生活や欲望が展開していきます。『水滸伝』同様に北宋末を舞台としますが、綿密かつ巧みに描写されている富裕な商人の風俗や生活には、明代後期の爛熟した社会風俗が反映しています。)を借りています。1624年(天啓四年)に亡くなりました。彼の著書には『五雑組』(全16巻)があります。その他に、『文海披沙』、『文海披沙摘録』等を著しています。『五雑組』(『五雜組』)は、時に『五雑俎』(五雜俎)とも記されます。この本の原題は『五雑組』であり、各種の色彩をとって布を織るという意味です。後に唐の段成式の著作『酉陽雑俎』から引いて、『五雑俎』とされました。五雑俎とは、古楽府の名であり、詞に「五雜俎,岡頭草。往復還,車馬道。不獲已,人將老」とあります。また、厳羽の『滄浪詩話』詩体には、「論雜體,則有風人、藁砧、五雜俎」とあります。『五雑組』の構成は以下の通りです。天部2巻、地部2巻、人部4巻、物部4巻、事部4巻。その記録の多くは、作者本人の読書の心得であり、また国事や歴史の考証も含まれています。李維楨の序文がつけられました。万暦44年(1616年)に潘膺祉の如韋館で刻本されています。謝肇淛は遼東の女真が後日に明朝の災いになるであろうことを記したために、清代になって軍機処によって破棄され、閲覧することができなくなりました。中華民国になって、復刻されています。当時の出来事などを集めたものですが、当時における武術や名人、及び少林僧についても述べています。一般に少林寺の拳法は、「少林拳」と書かれることが大いのですが、この書では「少林寺拳法」としています。おそらく「少林寺拳法」の名で書かれたのは、この書が最初ではないかと言われています。
「河南少林寺拳法は天下に無き所、その僧で遊方する者は皆数十人に敵う。流賊の乱の時に建議あり、厚賞を以てこれを募り、精壮五百余を得たり。・・・」
(「図説中国武術史」「中国武術史」ウィキペディア参照)

『琉球伝・武備誌』エピソード106

『江南経略』(1567~1572年)
著者の鄭若曽(1503~1570年)は、字は伯魯、開陽と号し、蘇州昆山の(江蘇省昆山)の出身です。嘉靖15年(1536年)に貢生(国士監の学生)となり、魏校、王守仁について学んだ後、総督・胡宗賢の幕僚となって、戚経光や兪大猷等とともに倭寇討伐に参加して活躍しました。江南の倭寇が平定されると、鄭若曽もその功績により「錦衣世襲」の名誉を授けられることになりましたが辞退しています。後に国史編集に推薦されましたが、それも辞退し、故郷に帰って著述に専念しました。『江南計略』の他に『籌海図編』『籌海重編』『江南図考』『日本図纂』等の著書があります。『江南計略』は倭寇の長江侵入を防ぐことを目的とした河川防衛に関する著作です。全八巻。各巻の内容は上下篇に分かれて記述されており、図絵185点が添付されています。巻八の「兵器総論」には槍術十七家(流派)、刀術十五家、剣術六家、弓弩十四家、棍術三十一家、雑兵器十家、鈀五家、馬上兵器十六家、拳法十一家の名称が列記されています。さらに一部の武術についてはその内容に関する解説が加えられているため、当時の武術流派の実態を解明する上での重要な価値を持っています。また、巻八下の「僧兵首捷記」には倭寇との戦役に赴いた少林僧たちの活躍が詳述されており、明代における少林武術および倭寇武術の研究に欠かすことのできない資料となっています。本書は隆慶2年(1568年)に初めて印刷され、万暦42年(1614年)に重版されました。清代の康熙年間(1662~1722年)にも鄭若曽の曾孫である鄭起泓と鄭定遠によって重版され、乾隆年間(1736~1795年)には『四庫全書』に収録されました。
「趙家拳(趙太祖神拳は三十六勢。蕪湖下西川二十四勢。抹陵関打漢童掌打は六路)。南拳(似風・似蔽・似進・似退の四路)。北拳(供看拳の四路)。西家拳(六路)。温家鈎掛拳(十二路)。孫家披掛拳(四路)。張飛神拳(四路)。覇王拳(七路)。猴拳(三十六路)。童子拝観音神拳(五十三斎)。九滾十八跌打撾拳。眠張短打破法。九内紅八下等破法。三十六拿法。三十六解法。七十二跌法。七十二解法。一百三十教師の相伝は、各ぞれ臻妙に際と為す。将に択びて、兵士の資の所とする。」
(「図説中国武術史」「中国武術史」「中国明代の武術書に関する史的考察」参照)

『琉球伝・武備誌』エピソード105

『練兵実記』(1571年)『止止堂集』
戚継光は「練兵実紀』の中で、兵士は骨身を惜しまず訓練する必要があり、従来どおり冷兵器武芸(火器を使わない武器)は大切なものだと強調しました。彼は「夕方になったら、 それぞれ適切な場所で武芸を磨くか、馬術を練習するか、あるいは鎧をまとって、日が暮れるまで練習するべし」と語り、さらにひたすら「一意専心」を心掛けて練習すれば「武芸は自然に優れる」と述べています。また、『紀効新書』の第四巻「禁止令」の中で戚継光は、「武芸というものは、役所の仕事を受け持つというのではなく、あなた自身が兵になり、自分自身を守り、賊を殺し、他人の命を救うことである。もしあなたの技が高ければ,賊はあなたを殺すことが出来ないが、技が賊に劣るなら、殺されるだろう。」と述ベ、さらに加えて「武芸を学ばない者は,自分の命が惜しくない間抜けな人間である。」と言っています。
明の軍隊は,武芸能力の高低に基づき賞罰を与えるという方法を定めました。それは『紀効新書・比較武芸賞罰篇』の「武芸を比較するとき、初試は上等二則、中等三則、下等三則」という記述や、長進した者には銀賞を与えるが、上手くなってないものには「四十棒を打って、職を降ろし、その職はすぐ武芸の長進者で補実する」という記述から知ることができます。このような方法は軍隊において練武活動を励行するために重視されていたと思われます。明朝は準軍事部隊や民兵の軍事訓練をも重視しました。このことは『明史』の中で「太祖在位初期、民兵は万戸府を設けた。民間の武勇を持つ人達を集め、隊伍を編成して,常に操練する。事は有るときに、戦場に赴く、無事なったら、農民に戻す」と記されていることによって明らかです。戚継光がさらに「胆が大きければ芸も更に高い」と考えたことは重要です。彼は「敵に臨んだ時、若し以前のように対応して,教場内での武芸を発揮出来たら,十分の武芸は必要がない,三分を学べたら,無敵の状態になる」とか,敵に会うごとに「てんてこ舞いにおちいり、普段に学んだ射法や打法をすべて忘れ尽くす。」とか,あるいは「普段の一分位の武芸を出せば、不勝ことがない,もし二分を使い出したら,一人で五人の敵を制し,もし五分を出せば、即ち無敵になる」と指摘しているからです。 諺で「芸高人胆大」とは言うが、実はそうではないと戚継光は考えました。もともと度胸のある者は熱心に技術を習得するものなので、それによって更に胆力が増すのであって、度胸のない者は平常の武芸習得しかしないので、たとえ口ですらすら諳んじることは出来たとしても、敵を打ち破ることができるとは限らないと考えたのでした。軍隊で武芸訓練を重視すれば、間違いなく軍隊中の武術そのものの発展も促進されます。また民兵による武芸訓練の重視は広く民間に尚武の気風を推進できると同時に、それは軍隊武術と民間武術の間の連係の橋渡しとなった。この事柄は中国武術の発展にとって非常に重要な役割を果たしたに相違ないのでした。
(「図説中国武術史」「中国武術史」「中国明代の武術書に関する史的考察」「中国・琉球武芸志」参照)

『琉球伝・武備誌』エピソード104

『琉球伝・武備誌』エピソード104
『紀效新書』(十八巻本1560年、十四巻本1584年)
著者の戚継光(1528~1588)は、明代の有名な将軍で、山東の蓬莱の出身です。代々の軍人の家に生まれました。勤勉に武芸を練習し、兵法を深く理解し、南では倭寇を防ぎ、北では辺境を安定させ、軍事に関わる一生で、みずから多くの戦いを経験しました。彼の編成した「戚家軍」や彼が1584年(万暦12)に著した兵書『紀効新書』は、天下にその名を響かせました。『紀効新書』は、軍事訓練を主要な内容とした著名な兵書です。拳法の効用を積極的に認め、軍隊強化の基礎訓練にこれを採用しました。『紀効新書』の主旨は、作者が自序のなかで指摘しているように、「そもそも『紀効』というのは、机上の空論ではないということで、『新書』というのは、それが原則から出発しているが、原則にとらわれてなく、臨機応変のものである。」というもので、さらに「兵士を訓練するのに使った決まりごとを集め、みずから民間から兵士を選抜することから、号令・戦法・行営・武芸・守哨・水戦に至るまで、その実用的で有効なものを選んで教練を分別し、順序だてて、それぞれ一巻としてこれを全軍に学習させた。」とも言っています。本書は実践をメインとしており、花仮虚套(見た目だけが華やかで実用性のない技法)を退けて、先人の兵法を吸収して書き上げ、理論と実践が一致することを重視しています。『紀効新書』は、当時の訓練の主要な教材の一つであり、今なお、現代中国軍の兵士訓練においても多大な影響を及ぼし続けていることからも解ります。『紀効新書』には、十八巻本(通行本)と十四巻本の二冊が現存しています。『紀効新書』十八巻本は、戚継光が明の嘉靖三十九年(1560年)前後に、浙江で参将に任じられたとき、寧波・紹興・台州・金華・厳州の各所を分かれて守り、兵士を訓練して倭寇に抗戦したときに作ったものです。全十八巻のうち一巻を「拳経(けんけい)」にあて、各門派の技法から選んだ三十二勢法の図を載せています。

<拳経の序文(原文)より>
〔此藝不甚預於兵,能有餘力,則亦武門所當習。但眾之不能強者,亦聽其所便耳。於是以此為諸篇之末。第十四。〕 拳法似無預於大戰之技,然活動手足,慣勤肢體,此為初學入藝之門也。故存于後,以備一家。 學拳要身法活便,手法便利,腳法輕固,進退得宜,腿可飛騰,而其妙也,顛起倒插;而其猛也,披劈橫拳;而其快也,活捉朝天;而其柔也,知當斜閃。故擇其拳之善者三十二勢,勢勢相承,遇敵制勝,變化無窮,微妙莫測。 窈焉冥焉,人不得而窺者,謂之神。俗云:「拳打不知」,是迅雷不及掩耳。所謂不招不架,只是一下;犯了招架,就有十下。博記廣學,多算而勝。 古今拳家,宋太祖有三十二勢長拳,又有六步拳、猴拳、囮拳,名勢各有所稱,而實大同小異。至 今之溫家七十二行拳、三十六合鎖、二十四棄探馬、八閃番、十二短,此亦善之善者也。呂紅八下雖剛,未及綿張短打,山東李半天之腿,鷹爪王之拿,千跌張之跌,張伯敬之打。少林寺之棍,與青田棍法相兼;楊氏鎗法與巴子 拳棍,皆今之有名者,雖各有所取。然傳有上而無下,有下而無上,就可取勝於人,此不過偏於一隅。若以各家拳法兼而習之,正如常山蛇陣法,擊首則尾應,擊尾則首應,擊其身而首尾相應,此謂上下周全,無有不勝。 大抵拳、棍、刀、鎗、叉、鈀、劍、戟、弓矢、鈎鐮、挨牌之類,莫不先有拳法活動身手。其拳也,為武藝之源。今繪之以勢,註之以訣,以啟後學。既得藝,必試敵,切不可以勝負為愧、為奇,當思何以勝之,何以敗之!勉而久試,怯敵還是藝淺 ,善戰必定藝精。古云:「藝高人胆(膽)大」,信不誣矣! 余在舟山公署,得參戎劉草堂打拳,所謂「犯了招架,便是十下」之謂也。此最妙,即棍中之連打。

<拳経の序文より(読下文)>
 「拳法は大戦に預ること無きの技に似たりと雖も、然し手足を活動し、肢体を慣勤す。此れ初学、芸に入る門と為すなり。故に于後に存し以って一家に備う。拳を学ぶには、身法は活便に、手法は便利に、脚法は軽固に、進退は宜しきを得て、腿は飛騰す可きなり。而してその妙たるや顛起倒挿、而して其の猛たるや披劈横拳、而して其の快たるや活捉朝天、而して其の柔たるや知当斜閃。故に其の拳の善き者、三十二勢を擇ぶ。勢勢相承け、敵に遇いて勝を制し、変化窮まり無く、微妙測ること無し。窈たり。冥たり。人、得て窺わざる、之を神と謂う。俗に云う、拳は知らざるを打つと。是、迅雷耳を掩うに及ばず。所謂、招せず架せず、只是、一下、招架を犯し了れば、就ち十下有り。博く記し、廣く學び、多算にて勝つ。古今の拳家は、宋太祖三十二勢の長拳あり。又六歩拳。猴拳。囮拳の名勢有り。各勢の各稱す所有るも大同小異なり。今の温家七十二行拳、三十六行鎖、二十四棄探馬、八閃番、十二短に至り、此れ亦善之善なる者也。呂紅が八下剛と雖も、未だ綿張が短打に及ばず、山東の李半天之腿、鷹爪王之拿、千跌張之跌、張伯敬之打。少林寺之棍と青田棍法と相兼、楊氏の鎗法と巴子が拳棍と皆今之名の有る者、各傳うる所長有りと雖も、然らば上有りて下無く、下ありて上無し。就ち人に勝ちを取るべきも、此れ一隅に偏なるに過ぎず。若し各家の拳法を以て、兼ねて之を習えば、正に常山蛇陣の法の如く、首を擊ちては則ち尾で應じ、尾を擊ちては則ち首で應じ、其の身を擊ちては首と尾で相い應じ、此れを上下周全と謂う、勝ちを有さ不る無し。大抵、拳棍・刀鎗・釵鈀・剣戟・弓矢・鈎鎌・挨牌の類、先ず拳法に由りて身手を活動せざること莫し。其れ、拳は武芸の源なり。今、之を絵がくに勢を以てし、之に注するに訣を以てし、後学を以て啓く。すでに芸を得ては、必ず敵に試みよ。切に勝負を以て愧じと為し、奇と為すべからず。當に何を以て之に勝ち、何を以て之に敗るかを思うて、勉めて久試すべし。敵を怯るるは還って是れ芸浅くし。善戦は必ず芸の精きに定まる。古に云う、芸高き人は肝大なると。信に誣せずや。余、舟山の公署に在りて、参戒(将校)の劉草堂から打拳を得たり、所謂、招架を犯し了れば、便ち是れ十下するとの謂なり。此れ拳法の最も妙、即ち、棍法の連打、連戮の一法なり。」
(「図説中国武術史」「中国武術史」「中国・琉球武芸志」参照)

『琉球伝・武備誌』エピソード103

『正気堂集』(1565年)『剣経』(1565~1569)
著者の兪大猷(1503~1580)は、福建省晋江の出身でした。軍人として大功があり、戚経光と共に陣頭に立って指揮をとり大いに戦功を立ててついに倭寇を平定しました。本書の特徴は以下の3点をもって整理されます。
(1)続集巻之 2 の第 7 丁に約350 文字からなる詩が掲げられ、そのタイトルは「詩送少林寺僧宗繁(有序)」と示されています。またここでは、少林寺の中には、視術(見るべき術)が無くなったことが記載されています。
(2)続集巻之 2 の第 11 丁に約30 文字にわたって「少林寺僧宗撃は著者から梶術を学んで、少林寺に戻るとき、著者が贈言した」ことが記されています。
(3)余集の巻之4 として『剣経」(楊法を指す)が掲げられています。全32 丁です。
この書は「餘集」と「続集」があり、明・嘉靖44年(1565年)と隆慶3年(1569年)の二度に渡って刊行されましたが、原本は順序などに誤りが多いため、後の清・道光21年(1841年)になって、福建省の孫雲鴻が友人の林藩に考証と検討を依頼し、訂正を加えて出版しました。この道光版には『北慮忌諱』の別名があります。この書の「餘集・巻四」に棍法の秘訣を解説した『剣経』があり、『剣経』は単行本として出版され、戚継光の『紀効新書』巻十二、茅元儀の『武備志』巻九十一、王鳴鶴の『登壇必究』巻三十などに収録されています。
『剣経』は主に棍術について論述した著書であり、「総訣歌」「習歩法」など200余りの要点から述べられています。兪大猷は棍術の武術としての重要性について次のように述べています。「棍を用いるのは四書を読むが如し。鈎・刀・槍・鈀は各一経を習うが如し。四書、既に明らかなれば六経の理もまた明らかなり。若し棍を能くすれば、すなわち各利器の法もこれに従いて得るべし。」『剣経』は棍法を述べた著作の中で最も優れたものとして当時の見識ある軍事家や武術家たちの間で大いに尊重されました。例えば、何良臣は自身の著書『陣紀』巻二の「技用」において「兪大猷の『剣経』に曰く「その旧力の略ぼ過ぎ、新力の未だ発せざるを持ちて、急ぎこれに乗ずるは、用芸(棍法)の秘を得るに似る。棍法の妙はまだ儘く兪大猷の『剣経』にあり、学ぶ者は心を悉して研究し、その短長を斟酌し、その花套を去り、その精緻を取れば、久しくすなわち自ら無敵と称すべし」と述べています。また、戚継光の『紀効新書』巻十二の「短兵長用説」にも「向見して総戎の兪公(兪大猷)は棍を以て余に示し、その妙なるところは巳に『剣経』の内に備載す。…ただ棍法のみならず、長槍、各色の器械は、俱にこの法に依りて当たるなり。近頃、この法を以て長槍を教え、あきらかなる効を収む。極めて妙なり!極めて妙なり!」とあります。当時、実戦性を重んじた軍事武術家の代表である何良臣や戚継光はいずれも兪大猷の『剣経』を高く評価していました。また、『剣経』に示された方法を尊重したのは軍事武術家だけに止まりませんでした。民間武術家の著述にも兪大猷の棍法に言及したものが残っています。例えば、程宗猷は『少林棍法闡宗』巻下の「問答」において兪大猷の言葉を「真に千古に発せられざるの秘」とまで評価して、『剣経』が当時の民間武術家にも大きな影響を与えていたことが窺えます。
(「図説中国武術史」「中国武術史」「中国明代の武術書に関する史的考察」参照)

『琉球伝・武備誌』エピソード102

『唐荊川先生文集』(1549年)
唐順之の随想や紀行文を集めた書です。この書はいわゆる武術書ではありませんが、巻二に
「遊嵩山少林寺」巻三に「楊教師鎗歌」「峨眉道人拳歌」「日本刀歌」などが収められています。唐順之はかって一振りの日本刀を手に入れ、世によく知られている『日本刀歌』をしたためました。この讃歌に次の一節があります。
客あり我に日本刀を贈る、
魚鬚を鞘を作る青緑の縄
重重の碧海を浮て渡来す、
身上の龍文は藻行を雑う。
悵然と刀を揚げ四顧を起こせば、
白日高高、天は冏冏
毛髪凛冽と(震え上がる)鶏皮(鳥肌)を生じ、
坐せば炎蒸の日、方に永きを失う。
道を開けば倭夷に初めて鋳して成し、
幾歳、深井に埋蔵し投つ。
日に陶し月を煉して大尽き、
一片の礎氷と清冷を闘う。
(「図説中国武術」「中国武術史」参照)

『琉球伝・武備誌』エピソード101

歴史上の兵学書・武術書から、私がこれまで取り上げてきた、「宋太祖三十二勢長拳」や「少林寺」といったテーマに沿っての記載を中心に俯瞰してみます。
『武編』(万暦末)
前述しました著者の唐順之(1507~1560)は天文・地理・兵略・文学・楽律に等に精通していました。倭寇が侵入してきた時には、自ら船を進めて迎え撃ち、大いに倭寇を破りました。『武編』は軍事著書であり、前後二集に分かれています。前集六巻では、将・士・制・練・令などの95項目が取り上げられ、東伍・節制・教練・攻守・行陣・器用・軍需・雑術といった問題を論述しています。前集巻五には、拳・牌(腰刀)・射・弓・弩・甲・槍・剣・刀・鎚(錘)・扒・攩・簡(鐗)などが取り上げられ、その用い方が述べられています。拳法の項には「温家拳譜」(拳勢・拳訣・手技・足技・応用)が収録されていますが、この拳譜はこれまで中国で発見された中での最古のものです。槍の項には六合槍法及び槍の各種応用方法が詳しく説明されています。剣の項には断簡残篇の中から見つかったとされる「古佚剣訣」十五句が記されています。
以下は『武編』に記されている拳法の門派解説からです。
「温家長打。七十二行着。二十四尋腿。趙太祖長拳は腿を多用。山西劉単打は頭頂を用いた六套。長短打は六套にして手を用い、低腿を用いる。呂短打は六套。趙太祖長拳は山東で専ら習い、江南もまた多くこれを習う。三家の短打は鉞(まさかり)もまたすこぶる能し。温家拳は則ち鉞を専修する所。(各)家には譜有れど今ことごとく述べること不能なり。(後略)」とあります。
(「図説中国武術」「中国武術史」参照)

『琉球伝・武備誌』エピソード100

<明代武将編エピローグ>
 武将と言えば、日本の場合、どうしても戦国武将のイメージになりますが、中国の場合はそれとは大分異なります。中国は伝統的に文官優位の社会であり、時代が下がるにつれてその傾向は一層強くなります。武将と言っても、官僚社会の一員に過ぎず、しかも、その地位は相対的に低いものでした。武将が活躍するのは戦乱の時代に限られます。平和の時代であったら、正史に名を留めることなく社会の下積みとして生涯を終えた人々が、たまたま戦乱の時代に生まれ合わせたことによって、歴史の表面に躍り出ました。仮に平和な時代でも、外からの侵略を受けるとか大規模な反乱が勃発したりすれば、彼らの出番が回って来ます。この事情は洋の東西を問いません。しかし、官僚社会に組み込まれてきた中国の武将には、さらにもう一つの戦いが待っています。それは他でもない、功成り名遂げた後、組織の中でいかに生き残るかの戦いです。これまで取り上げた明代の武将たちも哀しい晩年を送りました。しかし、だからこそ、その功績がひと際輝いているのです。
明代には多くの武術家が活躍しました。彼らの一方は軍事武術家であり、他方は民間武術家でした。中国の軍事史から見ると、明代は中国の伝統的軍事文明が最も発展した時期であり、軍隊の教練と訓練、武術の改良と開発等、各方面において顕著な変化が生じた時代でした。16世紀半ば以降、対倭寇戦争が全面的に展開されると、唐順之、兪大猷、戚継光といった名将たちが実戦上の必要から伝統的な武術の技法や訓練方法を再検討して、洗練の極致に至らしめ、さらに各種武器の改良・革新を行った上、敵の倭刀術さえも導入したことによって、非常に効果的な戦闘体系が完成しました。そして、彼らは長年に渡る戦場での経験を総括して、それぞれ著作を執筆しました。これらの著作は寡兵・束伍・節制・教練・攻守・行陣・器用・軍需といった軍事に関する内容に加え、様々な武術の技法や訓練法を具体的に記しており、大変実用性に富んでいました。また、何良進、鄭若曽、王鳴鶴、茅元儀といった武将たちもまた各々軍事専門著作を刊行しましたが、それらの中にも当時の武術や武器に関する情報が豊富に含まれています。一方、民間武術家には個々の独特な伝承があり、ある者は一芸に秀で、またある者は幾つかの武術を併せて行う等の違いはありましたが、それぞれに高い技術水準に到達して天下に勇名を轟かせていました。彼らの武術著書は当時の民間武術諸流派が急速に発展し始めた状況及び各流派の個性を反映したものとなっています。これらの著作からは当時の武術家が武術の技法及び訓練法を真剣に検討・総括し、また絶えず新しい内容を取り入れながら創意工夫を凝らした様子とその精神を伺い知ることができます。
(「中国武将列伝」「中国武術史」参照)

『琉球伝・武備誌』エピソード99

<茅元儀>
茅元儀(1594~1640年)は、明代の武将です。茅元儀は代々にわたる学者の家に生まれました。先祖は資産家であり、さらに古典に豊かでした。彼は幼い頃から学問を好み、様々な書物を広く読み、とくに兵書・戦策を好み、小さい頃から沈着で毅然とした有望な性格をあらわしていました。彼が10歳になったとき、故郷の呉興は100年に一度あるかないかの不作にありました。太守は役人と郡内の金持ちを招集して不作を乗り切る方策を話し合いましたが、結果は一人として承諾する人はいませんでした。茅元儀はそのことを中心となって担当しようと力説し、家に備蓄されていた数万石の食糧すべてを費やして被災者の支援にあて、一群がこれに頼りました。やや長ずるに及んで、後金国の蜂起に際し、辺境の将軍が無能で、武備が荒廃しているのに感じるところがあり、そこで兵学に傾倒し、家財をつぎこんで歴代の兵書を収集し、それを隅から隅まで読みました。しかも九辺の難所にある要塞や要害に対し、口で述べて図で示し、心の中で理解し、自費で辺境をめぐって考察して、艱難辛苦を体験しました。その後、彼は南京に住み、ちょうど江浙の才子たちが遊び、派閥闘争で激闘しているときに、彼は著述に専念し、心を潜めて歴代の兵書と当時の辺境の形勢を点検し、15年に渡って心血をそそぎ、中国古代の厚さと大きさが最大の総合的な兵書を編集、著述しました。全書で二百四十巻、約二百万字、附図七百三十余幅で、歴代兵学の成果を全収録しており、中国兵書の最高峰と言えるものです。この本こそが『武備志』です。この本の完成は、この若き才子の名声を一気に高めさせ、一群の明知の士から推薦されました。万歴年間、兵部右侍郎の楊鎬は命を受けて遼東を経略することになり、茅元儀を参謀として迎えました。その後、大学士の孫承宗が遼東で軍隊を指揮したとき、彼は軍務に協賛に行くように請われました。孫承宗は明末の名将で、茅元儀をとても買っており、茅元儀は孫承宗から、ほとんどの意見が聞かれ、立案が使われ、常に重要な任務が与えられ、一方を任されていました。茅元儀がかつて基地を出て紅螺山を観察に行った際、7日にわたり烽火が見えず、随員は全員が色を失いましたが、茅元儀は落ち着いており、困っている様子はありませんでした。彼はかつて孫承宗のために遼東水軍を作る仕事を計画し、並びに自ら江南に行ってこのために艦船を集めました。まもなく、孫承宗は排斥されて失職し、茅元儀もそれに従って病気を理由に故郷に帰りました。遼東はついにぼろぼろになり、後金国の勢力は天に昇る太陽にように、二度と制することができなくなりました。崇禎帝は即位し、改革を実行しようと強く思い、茅元儀も再び希望がもてたので、首都に行って新しい皇帝に『武備志』を謹呈しました。あわせて上書して辺境の情勢、軍国の大計を陳述しました。結果、権臣の王在晋たちから中傷され、「皇帝陛下に対して傲慢である」という理由で河北の田舎に追放されました。崇禎二年、後金国の騎兵が大挙して南下し、北京に切迫しました。この危難のなかで孫承宗は命を受け、軍隊を指揮して敵を退けました。茅元儀も二十四騎を率いて孫承宗を護衛し、東便門から包囲を突破し、通州に到達し、兵権を握って後金国の騎兵を撃退して、ついに首都の包囲を解きました。この戦争で、茅元儀は先頭に立って戦い、その知略と武勇は並ぶ者がなく、かくかくたる戦功をたて、その後、破格の抜擢を受けて副総兵となり、遼東の菊花島水師を指揮しました。しかし、権臣が政治権力を握っており、派閥抗争が止まず、政治が昏迷している時期にあって、若くて有望な人材はその才能を大いに発揮することは不可能でした。茅元儀は昇任してからまもなく、権臣から言いがかりをつけられて解任され、それから訳が分からないうちに遼東の兵士たちの騒動に連座させられて、流罪として福建の軍営での苦役につかされました。その後、遼東の軍情が緊急事態になったので、茅元儀は国難に臨んで個人の全財産を投げ出し、家財をすべてつぎこんで募兵して勤皇に立ち上がりましたが、さらに権力者が邪魔し、どうしようもできず、彼は酒におぼれ、悲嘆にくれ、憂いて病気となって死去した。享年、わずかに46歳でした。一代のすぐれた才能の持ち主は、若くして世を去りました。

『琉球伝・武備誌』エピソード98-2

<戚継光の活躍>
戚継光は嘉靖27年~32年(1548~1553年)に、モンゴル勢力に脅かされた北方防備の要衝である葪門の守りについています。嘉靖32年(1553年)に山東省、嘉靖34年(1555年)浙江へとその活躍を買われて転任し、倭寇と戦うようになりました。嘉靖36年(1557年)、王直が胡宗憲の投降の誘いを受け入れて、大船団を率いて日本から明に帰国してきた際には、兪大猷の船団と合流してこれの警戒に当たり、王直投降後、王直の義子である毛烈ら残党が舟山に立てこもって抵抗すると、これと激戦を交えました。この時は苦戦を強いられ、兪大猷ともども免官をかけられて必死に戦い、どうにか勝利を得ています。ところで戚継光は浙江に初めて赴任した際、現地の官軍があまりにも弱体なのをみて、浙江省義烏県の剽悍な人民を4000人募集しました。これがやがて勇名を馳せる「戚家軍」の母体となるのです。因みにこの「戚家軍」のモデルになったのが宋代に岳飛の率いた「岳飛軍」でした。しかし、兵士の資質がどんなに優れていても、集団としての訓練を経なければ精強な軍隊にはなりません。訓練の内容は第一に、思想教育です。軍は人民の生活を守る存在であることを繰り返し説くとともに、軍律を貫徹し、信賞必罰の方針で臨むことを明らかにしました。戚家軍が行く先々で歓迎されたのは、このような思想教育が厳しくなされたからでした。第二に、作戦訓練です。兵士の年齢や体格に応じて、それぞれに適した武器を決め、その訓練に励みました。しかし、これは基礎訓練に過ぎません。戚継光の卓抜なところは、この様な基礎の上に立って「鴛鴦陣」と呼ばれる戦闘方法を編み出したことです。「鴛鴦陣」とは12人を1組とする戦闘単位で、先頭に隊長が立ち、その後に、左右二列になって10人の兵士が従い、最後尾に炊事夫が従っています。10人の兵士の内、一番前の二人は楯を持ち、次の二人はこの地区特有の丈夫な竹の先に刃物を付けた「狼筅」と呼ばれる武器を持ちます。さらに、それに続く4人は長槍を、一番後ろの2人は刀などの短い武器を持ち、それぞれの武器の長所を生かして12人が一体となって機動的に戦うというのが、この陣の特徴でした。江南地区は沼沢やクリークが多く、道が曲がりくねっているので、兵力を散開させるには不向きでした。また、倭寇はしばしば伏兵を置いて、突撃戦法で攻めて来たので、この様な状況下で生み出されたのが、「鴛鴦陣」であり、倭寇の制圧に大きな効果を発揮しました。この戚家軍を率いた戚継光は嘉靖40年代の浙江南部・福建方面に来襲した倭寇の大軍と連戦し、兪大猷・劉顕らとともに数々の功績を挙げ、その名声は他の二人に抜きん出ていました。この頃、戚継光は福建総兵官(総司令官)に任命されています。その後、隆慶年間(1567年~)に入ると薊州総兵官に抜擢されて北方でモンゴル対策に奔走します。ここで戚継光は、北方防衛の現状と問題点を指摘し、その改革に努めています。また、戚継光に召集された浙江人3000人の部隊は、大雨が降ろうと朝から日没まで陣内で、直立不動で、北方の衛兵達を大いに驚かせたと言います。こうした規律ある軍制と卓越した指揮により戚継光は北方に16年に渡りにらみをきかせ続けました。1582年後ろ盾であった宰相の張居正が死去した為、その余波が薊州の戚継光に及び、半年後に、広東総兵官に左遷を命じられましたが、戚継光はこれを嫌い、病を理由に断り、それで弾劾を受けて罷免させられました。3年後にその処置は取り消されましたが、間もなく病を得て不遇のうちに死去しました。兵法書も著しており、「紀效新書」「練兵紀実」などが有名です。「兵を談る者これを遵用す」とあるように、後世の軍事関係者から必読書として珍重されます。
(「中国武将列伝」参照)

『琉球伝・武備誌』エピソード98-1

<戚継光の生い立ち>
戚継光(1528~1588年)は、倭寇およびモンゴルと戦った明代を代表する名将です。字は元敬。戚継光の生まれた家は、明王朝の初めから五代にわたって登州衛の指揮僉事を勤めてきました。登州というのは現在の山東省蓬莱県、衛とは駐屯地、指揮僉事とは世襲の武官職です。当時、地方の駐屯地における世襲の武官職には、9の等級がありました。上から列挙すると、指揮使、指揮同知、指揮僉事、衛鎮撫、正千戸、副千戸、百戸、試百戸、所鎮撫となります。戚家は上から三番目の指揮僉事でしたから、将官の末席クラスといったところでした。生まれながらにして武官になるべく運命づけられていましたが、平和な時代であれば、多分、官僚組織の末端に位置付けられたまま地方駐屯地の幹部として平凡な一生を終えていたに違いありません。ところが、当時の明王朝は「北慮南倭」と総称される様に、北はモンゴル、南は倭寇に脅かされていました。戚継光は倭寇退治で頭角を現し、次いで、その実績を買われて北辺の守りの総司令官に起用され、武官職の最高位を極めました。彼が最高位を極めた理由には、まず、積極的で覇気に富んでいた性格が指摘されなければなりません。戚継光の性格は「果毅」(積極果敢で決断力に富んでいること)で、その戦いぶりは「飄発電挙」(つむじ風が巻き上がり、稲妻がピカッと光る)であったと言います。この様な性格は、幼い時からであり、父親の影響が強かったようです。父・戚継通は稀に見る清廉な人物であったらしく、継光はこの父から、将来、武人として立っていくに必要な文武両道の心得をたっぷりと仕込まれています。家計は貧しかったのですが、戚継光は読書を好み経史の大義に通じるようになったといいます。嘉靖23年(1544年)に父の職である指揮僉事を継ぎました。
(「中国武将列伝」参照)

『琉球伝・武備誌』エピソード97

<胡宗憲>
一言で不思議な人物です。超一流のエリート官僚として、もの凄い権力志向をもち、なおかつ優れた戦術・戦略家の素質を見せ、それでいて倭寇・王直と結びついて海禁政策打破を図った改革派の側面も有していました。この解り難さが彼を失脚・自殺の悲劇に追い込み、それでいて兪大猷・戚継光ほどに人気を集めない一因かもしれません。なお、かつての中国の最高指導者である胡錦濤国家主席は彼の同郷同族の子孫と言われています(直系かどうかは判りません?)。

胡宗憲(1512~1565)は、嘉靖倭寇平定の最高指揮官。王直と同じ徽州の出身で、歙県の隣の績渓県に生まれました。字は汝貞、「梅林」と号しました。故郷にいる間に王直とすでに知り合っていたとする資料もありますが、真相は不明です。嘉靖17年(1538年)に科挙に合格、進士となりました。初め益都・余姚などの知県を歴任し、朱紈の双嶼掃討戦にも協力しています。その後御史に抜擢され、北方の対モンゴル防衛にあたります。ここで兵士達の暴動を単騎で説得して宥めたといいます。彼が浙江に赴任して倭寇対策にあたるようになるのは嘉靖33年(1554年)からでした。胡宗憲が赴任した当時、倭寇対策の責任者は総督・張経と浙江巡撫・李天寵でした。これに中央の実力者・厳嵩の側近・趙文華がお目付役としてつけられていましたが、趙文華は自分の権勢を笠に着て勝手放題にふるまっていました。張経と李天寵はこれを無視しましたが、胡宗憲だけは趙文華に接近し、その信頼を得ることになります。その後、倭寇が嘉興を攻撃した際、胡宗憲は毒酒を倭寇に奪わせる計略で数百人を労せず殺す功績を挙げ、さらに張経指揮下の王江涇などの戦闘では、馬ごと水路に落ちて危うく溺死しかけるほどの奮戦を見せました(この時は銭燐に救われました)。この戦闘の勝利を、趙文華は全て胡宗憲の功績として皇帝に奏上し、逆に張経・李天寵を弾劾して刑死に追い込んでしまいます。そして胡宗憲はまず巡撫、ついで総督に抜擢されました。要するに趙文華と謀って彼らの地位を奪ったわけです。しかしただ権力欲とコネだけで総督の地位に就いたわけでもなく、彼には彼なりの倭寇問題解決のビジョンがあったようです。それは海上の覇者である王直その人を帰国させ、彼に海上の治安を任せるという方策でした。胡宗憲は自らの幕僚に地理学者の鄭若曽など豊富な人材を集めていましたが、さらに都督・万表から諸生・蒋洲を紹介されました。胡宗憲は王直の妻子を捕らえて手厚く遇する一方、蒋洲に王直との接触を命じています。蒋洲は友人の陳可願らとともに日本へ渡航し、毛烈と五島で接触、さらに平戸で王直本人に面会し、胡宗憲の意志を伝えました。王直は家族が胡宗憲に厚く遇されていること、さらに胡宗憲が私貿易の公認を密かに考えていることに心を動かされ、帰国の決意を固めることになります。王直は毛烈・葉宗満を先に帰国させ、胡宗憲の軍門に入らせました。毛烈らがいったん帰国した後、徐海率いる大軍が襲来、陳東・葉麻らの集団と合流して柘林(しゃりん)に拠点を構えて各都市に攻撃をしかけました。中でも浙江の桐郷は徐海・陳東の大軍に包囲され陥落寸前に追いつめられ、守将の阮鶚は必死に胡宗憲の救援を求めました。しかし胡宗憲は「阮鶚と共倒れするのも無意味なことだ」とつぶやき、これを放っておいて徐海集団への謀略を展開します。胡宗憲は部下を徐海の陣営に遣わして王直が帰順の意志を示していることを伝え、徐海にも降伏を促しました。傷を負って気弱になっていた徐海はこれに応じ、桐郷の包囲を解きました。胡宗憲はさらに徐海の愛人・王翠翹に連絡を取り、徐海・陳東・葉麻らの間に離間の計を仕掛けていきます。徐海はまんまとこれにはまり、陳東・葉麻を次々と捕らえて胡宗憲に献上してしまいます。やがて胡宗憲は陳東の残党をけしかけて徐海を沈荘に急襲させ、徐海は水に身を投げて自殺しました。戦いの後の勝利の宴で胡宗憲はしたたかに酔い、捕虜となった王翠翹を相手に大いに乱れたと伝わっています。徐海集団を壊滅させた功により胡宗憲は右都御史に昇進しました。嘉靖36年(1557年)11月、大友宗麟の仕立てた日本使節という形式をとって王直がついに明に帰国しました。胡宗憲は王直の息子・王澄に手紙を書かせて王直に投降を命じ、王直は官軍側から人質を取ることを条件に投降に応じました。王直の身柄はただちに拘束されましたが、彼に対する胡宗憲の扱いは丁重で、王直は豪勢な生活を獄中で送れたといいます。これも胡宗憲が王直を生かして私貿易を解禁させ、彼に海上の治安を任せようとしていたからに他なりません。胡宗憲は幕僚に私貿易解禁の具体案を構想させる一方、中央政界においても王直助命に奔走しています。しかしこれらの活動は胡宗憲の政敵には恰好の攻撃材料となりました。「胡宗憲は倭寇から賄賂を受けて動いている」との弾劾が繰り返され、胡宗憲の政界における立場は危うくなりました。やむなく胡宗憲は王直をかばうことを諦め、王直は嘉靖38年(1559年)12月に処刑されました。この現場に胡宗憲がいたとする資料といなかったとする資料があって真相は判然としません。王直処刑後も新たな倭寇集団との戦闘が続きました。胡宗憲の指揮下に兪大猷・戚継光らの名将が活躍しましたが、必ずしも彼らと胡宗憲の関係は良好ではなくむしろ険悪ですらありました。特に胡宗憲は自らの地位を守るためには手段を選ばないところがあり、しばしば敗戦の責任を彼らに押し付けたり、逆に功績を彼らから奪ったりしており、史書でも評判は良くありません。特に時の権力者・厳嵩父子や趙文華に積極的に媚びを売り、皇帝にも白鹿・白亀を献じてご機嫌をとるなどの行動が目立ち、「権術多く功名を喜ぶ」と『明史』は評しています。王直の死の翌年、王直を平らげた功により太子太保に昇進します。やがて趙文華が死に、厳嵩父子も失脚しました。胡宗憲は嘉靖帝の寵愛に頼って生き残りを図りましたが、嘉靖40年(1561年)に彼と厳嵩の関係を問う弾劾が行われ、ついに逮捕・投獄されました。そして間もなく獄中で急死しました。服毒自殺とも言われています。のち万暦帝の時代に彼の名誉回復がなされ「襄懋」とおくり名されました。
(「王直と倭寇」「俺たちゃ海賊!激動の東アジア史」参照)

『琉球伝・武備誌』エピソード96

<唐順之>
唐順之(1507~1560年)は、明の学者、文学者。常州武進 (江蘇省) の人。字、応徳。号荊川。嘉靖8年 (1529) 年進士に及第しました。翰林院編修となり歴代の実録の校訂に従事します。諸官を歴任して大僕小卿(大臣)となりましたが、しばしば上官と衝突して野に下り、教育研究に努めました。倭寇の暴虐を見て官に復し、自ら海上で指揮して防衛にあたります。江北に危機があると聞けば救援に行き、鳳陽(安徽省)の巡撫(省の民治・兵制を司る)李遂とともに大いに倭寇を打ち破りました。また武術にも優れ、槍法の技術に関してはかなりの修練を積んでいて、戚継光が槍法の技術について質問したとき、唐順之は自ら槍を手に取って技法を説明し、それが極めて巧妙であったため、さらに戚継光が質問すると、唐順之は「この工夫は十年かかる」と答えたという一事が『紀効新書』の中の「長兵短用説」に記されています。酷暑の時に海上の船にいたため病気となり、江蘇省に戻りましたが、やがて右僉都御史(官吏を監察する役)に任命され、さらに李遂に代わって巡撫となりますが、病気が重くなっても軍務を辞さず、嘉靖39年(1560年)の春、増水した河で病をおして船に乗り、江蘇省の焦山から通州に至る時に亡くなりました。きわめて博学で、数学の三角法にも通じ、王畿に学んで陽明学者としても有名でした。散文作家としては古文辞派全盛の中にあって、心情の素直な流露を重視する達意の文を説き、帰有光、王慎中とともに三大家と称されました。詩文集『荊川先生集・外集』があります。
(「図説中国武術史」参照)

『琉球伝・武備誌』エピソード95

兪大猷(1503~1579年)は、嘉靖期の対倭寇戦で活躍し、明代を代表する名将の一人です。晋江(福建省泉州)の出身で字は志輔、虚江と号しました。貧しい軍人(百戸)の家に生まれ、少年時代には読書を好み、王宣および林福学を師として『易経』を学びました。その後、趙本学が『易経』に基づいて兵法を解釈できると聞くと、趙氏の下で兵法を学びました。また兵法だけでなく、李良欽について「荊楚長剣(棍法)」を学び、天才的であったため師の李良欽は「公は必ずいつか天下無敵となる。」と断言し、はたして兪大猷は棍法の達人となりました。父親が亡くなるとその職を継ぎ、嘉靖14年(1535年)の武挙に及第して千戸に出世しました。しかし当時の海賊の頻発について意見書を書いたことが上司の逆鱗に触れ、杖刑に処された挙げ句職を奪われてしまいました。その後南方、北方に戦争が起こるたびに売り込みに走り、ある時などある総督の前で兵事を論じて総督を感激させ、全軍を驚かせたといいます。その後海賊の討伐などに功績を挙げたため、広東の防衛に抜擢され総督・欧陽必進に重く用いられました。そこで当時のベトナム黎朝と対峙し、数々の功績を挙げています。兪大猷が浙江の倭寇対策に赴任するのは、嘉靖31年(1552年)からです。当時の浙江海上では王直が陳思盻を滅ぼして海上を制覇し、官憲とも渡りをつけて密貿易を大々的に行っていました。着任するやいなや兪大猷は王直を敵視した意見書を続々と出しています。当時の海上には相変わらず海賊が活発に活動しており、王直自身もその討伐に当たっていたのですが、兪大猷は海賊の背後に王直の存在があるのではと疑っていました。一部の資料によれば、ある海賊の討伐を王直に命じたところ、王直が攻撃する前にその海賊が逃げ去ってしまったので、兪大猷らは「海賊の背後に王直あり」と判断したのだといいます。兪大猷等の意見を受けて総督・王ヨ[小予]は嘉靖34年(1553年)に王直の根拠地・烈港の攻撃を命じました。兪大猷は湯克寛とともに烈港を急襲、王直の根拠地を壊滅させました。王直自身は暴風に紛れて脱出し、日本へと落ち延びました。兪大猷はこれを「海底に潜む龍が起きて船が転覆しかけた」と報告しています。烈港攻撃をきっかけに大規模な倭寇活動、いわゆる「嘉靖大倭寇」が勃発します。兪大猷は海に陸に各地で倭寇相手に奮戦しています。さすがに勝ちばかりというわけにはいかず、時折致命的な敗北をして停俸(給料停止)や停職の罰を受けています。どうにか勝利を得ることで前の罪を免れるという繰り返しです。この時期の兪大猷の戦場はほとんど舟山群島の海域です。これは彼の持論で「倭寇は上陸すると手が付けられないが、海上ではさほど強くはない」という理由によります。嘉靖35年(1556年)3月には浙江総兵官に任じられ、その年の暮れには舟山に立てこもった倭寇を大雪に乗じて包囲殲滅する戦功を挙げました。嘉靖35年、胡宗憲が浙江の総督となり、倭寇対策の総指揮を執ることになりましたが、胡宗憲の方策は王直を呼び戻し、これに海上治安を任せることにありました。兪大猷はこれに断固反対し、以後、胡宗憲と険悪な関係となります。翌嘉靖36年(1557年)11月、ついに王直の船団が浙江海上に現れました。兪大猷はこの時、戚継光とともに、王直を包囲する形で海上に布陣しました。王直は先年の烈港のこともあって兪大猷の存在をかなり恐れたと言います。結局王直は胡宗憲に投降しますが、その義子・毛烈らが舟山に立てこもって抵抗したため、兪大猷はこれを攻撃しました。しかし毛烈らの抵抗が思いのほか激しく、兪大猷らは苦戦を強いられたため、朝廷は兪大猷・戚継光らを弾劾し、1ヶ月以内に勝利を得なければ停職とするとしました。慌てた兪大猷は翌年7月に毛烈らが海に出た所を攻撃して勝利を収めましたが、結局残党らは福建・広東の各地に散り、兪・戚の両将はその掃討に年月を送ることとなりました。この間にも胡宗憲との対立がしばしばで、一度は讒言から投獄の勅命が降ったこともありますが、その後、嘉靖40年代を福建・広東方面での倭寇討伐(首領は張レン[王連]・呉平・曽一本など)に戚継光、劉顕らと共に明け暮れました。年老いて引退を勧められた時、さらに軍務に就くことを強く望み、次のような意見書が朝廷に出されています。「朝廷は大猷が老いたと申されるのか?大猷の子・恣栄の母は今また身ごもっている。気と体が強健なことはかくの如しである。」朝廷が信じないため、兪大猷が参内した時に、30人の者を選び出して槍や棍を持たせ、兪大猷一人に立ち向かわせましたが、すべてそれらの者をたじろがせ、再び軍務に就くことを請求しました。「大猷は胡(西方や北方の異民族)の勢力を挫き、雄々しい心で国に報いるも、遂に一戦も交えずして恨みを千古に遺す。まさにこれを憐れみてあるべし、願わくば、朝廷がこれを図ることを。」と訴えますが、朝廷の会議はこの意見を入れず、辺境の守備を守ることだけに終わってしまいました。に万暦の初め(1579年)に死去し、「武襄」とおくり名されました。兪大猷は明代を代表する武将でしたが、同時に文才にも恵まれており、その著作・意見書・書簡などは「正気堂集」としてまとめられています。棍法の達人である兪大猷は、かつて少林寺に神伝の棍法があることを聞き、少林寺を訪れてその棍法を見ると、既に神髄が失われていることを知り、逆に少林寺の普従と宗擎の二人の僧に棍法を教えました。棍法の秘訣を解説した『剣経』は単行本として出版され、後述する戚経光の『紀效新書』はこれをそのまま転載しています。
(「王直と倭寇」「図説中国武術史」「中国武術史」参照)

『琉球伝・武備誌』エピソード94

<朱紈>
朱紈(1492~1549)は中国、明代の政治家であり。長洲(江蘇省呉県)の人です。『明史』によれば、朱紈。字は小純。蘇州郊外の長州の出身で正徳十六年(1521年)の進士(科挙の合格者)です。景州、開州の知州(州知事。州は省や府よりも小さく県よりも大きい地方行政単位)などを歴任し、四川在任中に反乱流賊を討伐する軍功もあげています。その後広東の左承宣布政使(省級の地方行政機関である承宣布政使司には左右ふたりの長官がおり、左承宣布政使はそのうちのひとり)を経て、嘉靖二十五(1546年)に都察院副都御史(都察院は監察を担う中央官庁。副都御史はその次官職)に抜擢され、南贛巡撫として江西贛州府に赴任しました。巡撫というのは、いわば省長であり、省級の行政の長である承宣布政使や司法・警察・監察の長である提刑按察使、軍事長官である都指揮使よりも上位にあって地方を総覧する要職です。そして、贛州着任後一年を経ずして、嘉靖二十六年(1547年)年杭州転任の辞令を受けました。朝廷が南贛巡撫の人事をわずか一年にも満たずに翻したのは、浙江、福建沿海でくすぶりはじめた火を重くみて、その火をすみやかに消すためには朱紈こそが適任であり、他に代わるものはいないと考えたためです。この時期の中国沿海部の状況について少し見ておくと、明朝は建国の時より「片板不許入海(ひときれの板も海に浮かべてはならない)」という、いわゆる「海禁」を法としており、ゆえに海上貿易を原則禁じています。しかし浙江、福建沿海は急峻な山地が背後に迫るので、そこに住む人々は食料を農業に頼ることはできず、漁業や他地域からの海を通じた流入が無ければ生きることは難しい状況でした。一方で、曲折に富む海岸線を有するので良い港が多く、背後の産地から豊富に船材を得ることが出来ます。その為、淅江、福建沿海住民の多くが海に出て漁業や海商(海上貿易に従事する商人)に従事しています。朝廷としても彼らが経済活動に従事している限りは海禁の法に反していても目くじらを立てる必要はなかったのです。ところが数年前から海商によって沿海の村々が頻繁に襲われる様になりました。海商の一部が、いってみれば利幅の大きい略奪を主とし、利の薄い商取引を顧みなくなったのです。海賊化した海商は、村々に蓄えられた農作物や金銀財宝を強奪し、邪魔をするものがあれば容赦なく殺し、女とみれば輪姦し、子どもをさらって身代金を要求するか、満足な身代金が得られなければ奴隷として酷使しました。これらの惨状を受けて、朝廷は朱紈に対して淅江巡撫に兼ねて、福州、漳州、泉州等を統括する海道提督軍務(沿海部の軍事長官)に就くように下命しました。朱紈を一言で表すならば、義の人です。利欲に関心を向けず執拗なまでに正義にのみ従い生きています。周囲には清廉剛直をもって知らており、贈収賄がはびこり、それで天下が回っているこの時代にあって「清廉」であることは決して敬われることではなく、むしろ陰では嘲笑われましたが、複雑に絡み合う諸権益を顧みず、各方面からの圧力に屈することなく大鉈を奮うにはこの様な人物こそがふさわしかったのです。文官でありながら四川在任中には流賊討伐という軍功もある朱紈はまさに適材と考えられました。浙江巡撫を命じられた後は、倭寇の討伐に活躍し、嘉靖二十七年(1548年)双嶼を攻略しました。海防施設を増強、出入船舶の監視を厳重にし、沿海住民の保甲(→保甲法)を厳しくして海寇の絶滅に大いに功を上げましたが,その処置が厳格すぎたので密貿易により利益を得ていた郷紳、豪商の反感を買い、彼らの画策によって弾劾を受け,それを憤って服毒死しました。『明史』によれば、朱紈は、「外国の賊を除くことはたやすいが、中国の賊を除くことは難しい、中国沿海の賊はまだいいのだが、中国の衣冠を着けた賊を除くことは極めて困難だ。」と述べています。この短い言葉は、朱紈の置かれた状況と心境をよく表しており、後世において朱紈が語られるとき、必ず引用された一文です。海賊討伐の為に赴任した朱紈は、淅江、福建の状況を見て、沿海を荒らしているのは外国船というよりも、むしろ中国人が中心であることを知りました。中国人の賊は数が多く、一つを叩いてもすぐに他が現れ、沿海住民の経済的利益とも密接に絡んでいるので、その撲滅は容易な事業ではありませんでした。しかしながらそれ以上に難しい相手は、衣冠を着けたもの、すなわち高官や郷紳(地方の名士、一般に科挙で得られる肩書を有し、地方の官民の利害調整を行っていた)たちでした。明朝は歴代王朝の中で官吏の給料が最も安かったと言われ、そのことと表裏の関係にあるのか、賄賂が横行した王朝でした。ちなみに、この朱紈が海賊討伐に出向いて来た頃、日本の将軍は剣豪将軍と呼ばれていた足利義輝でした。この義輝の一族に、義氏という人がいますが、彼は上泉伊勢守に剣術を学んでいたという説があります。伊勢守と言えば新陰流の開祖。そしてその師である陰流の開祖、愛洲移香斎(1452~1538年)というのが倭寇だったと言われています。おそらくはこの船山諸島倭寇に参加していた時期があったのではないかと思われます。
また朱紈は、嘉靖28年(1549年)に兪大猷を福建の備倭都指揮に任命しています。兪大猷の倭寇討伐における華々しい功績は実にそこから始まりました。
(「朱紈 倭寇の海 英傑列伝」参照)

『琉球伝・武備誌』エピソード93

<倭寇シリーズ・エピローグ>
何故、ここまで執拗に倭寇のことを書いてきたのか?と問われれば、これが日中武術史の鍵を握っているからです。ずばり倭寇の親分達は、いずれも五百斤の重量を持ち上げる程の怪力の持主であり、拳法にかけても名手揃いでした。無法者達を束ねる必須条件は真っ先に腕自慢であることは言うまでもありません。しかし、単に喧嘩が強いだけではだめです。実力に物を言わせて、仲間内の喧嘩を仲裁する能力、つまりは利害調整が上手いことで名親分としての器量が問われます。彼らはまさにそれに適した人物でした。明朝時代には、拳門流派が多数発生し、それぞれに勝手な名称を付し、春秋戦国時代からの伝統伎であるとか、達磨大師の直流であるとか、誰も実証出来ないような事柄を伝書の前文に記していますが、体位・移動法・歩法・腿撃法・指尖法・掌法・打拳法・翻身法・臥転法・急所・奪器術などの技法は、戚継光の言う如く、いずれも大同小異でありました。ただ塩徒や倭寇が用いていた拳法や腿法などは、剛強な体力をもって押しまくる傾向が強く、南宋の五山十刹で修行僧たちが行っていた様に体系化された技法を指導者について、初手から学んだものとは随分違ったものでした。淅江地方で発達した拳法は、還俗僧や破門僧が、塩徒や倭寇に伝えたといわれています。倭寇の親分となった王直、徐海、林鳳、顔思斉などは少年時代から禅林に入り、まともな師匠について修行した男達ですから、目に一文字も無い卑賤な無頼漢とは一線を画していました。王直が学んだと言われる中国拳法は、南宋時代頃から、江南地方の禅林に普及していた太祖拳(南派趙門拳)でした。王直が禅門で修業した太祖拳法を海賊の実戦用に改良したもので、敵の急所のみを狙った即戦型の拳掌技と考えることが出来ます。下っ端海賊たちには、体系的なものは到底覚えきれなかったでしょう。本人自身は正当な体系を身につけていたからこそ、その応用型を工夫することが出来たわけです。
「倭寇シリーズ」はひとまず終了です。次回以降はいよいよ明軍の諸将たちの活躍を描きます。お楽しみに。
(「格闘技の歴史」参照)

『琉球伝・武備誌』エピソード92

<鉄人部隊は日本人?>
 鄭成功軍は南京を目指し、途中の城を簡単に落としながら進みますが、南京では大敗しました。鄭成功は帰郷後、たびたび日本刀具の入手方法を探っていましたが中々良い方法が見つかりませんでした。そこで、鄭成功は徳川幕府に、救援部隊3,000と鎧兜、弓矢等の武器を要請し、二代将軍徳川秀忠もそれに応じて数度に亘り幕議を開きました。しかしその最中、長崎から飛報がやって来ます。清軍により福建・福州が陥落したとの知らせでした。福州といえば、鄭軍の根拠地の一つです。根拠地を落とされた敗色濃厚な鄭成功に加担しても意味がないと考えて幕府は援軍を送ることを中止しました。また、徳川幕府には、明朝に加担して清朝の恨みを買うのには、些か抵抗もあったのでしょう。それには過去の因縁が関連していると言われています。豊臣秀吉全盛の頃、日本軍は明軍と朝鮮半島で激闘を繰り返していました。(文禄・慶長の役)その時、清(当時は後金)の首領・ヌルハチは再三、明朝に要請し、清八旗・三万の兵士を明軍の一翼として出撃させて、日本軍との交戦を願い出ましたが、許可されませんでした。二代将軍徳川秀忠がそのような内情を知るよしもなく、秀忠は清が、日本のことを思い出撃をとりやめたと考えていたようです。また、ヌルハチの後継者となったホンタイジ(清朝初代皇帝。太宗)は、遠交近攻の政策を取ったために、隣国朝鮮は徹底的に攻撃しても、日本に対しては融和政策を取っていました。その結果として、徳川幕府は清朝に対して敵対意識はないどころか、むしろ好感さえ持っていた節さえあるのです。たとえ日本人を母とする鄭成功でも、所詮は明朝の遺民であり、明朝の片棒を担いで、清朝の恨みを買う必要は無いと考えたことが援助を控えた主な原因と思われます。また、当時の徳川幕府は鎖国政策を固めつつあり、国力を浪費する海外出兵は選択肢になかったのも理由の一つと考えられます。公式な援助を断られた鄭成功は、裏から手を回すことを考えます。因みに、家光と鄭成功は歳一つ違いで同世代であったので親近感を有していたとされています。鄭成功は、このままでは、偉大にして崇高な中華の国が禽獣(満州族)の国になってしまうと、徳川幕府に援軍を依頼しました。その内容は、「お互いに親密な関係を造りたく存じます。我が軍には、丈夫な兜がなく、戦うたびに兵力を損耗します。日本の兜は世界中が羨むものであり、弓矢を防ぐこと金鉄や石のようです。伏してお願い申し上げます。できれば交易をして、兜を二百ほど我が軍の精鋭に配り、堂々と敵軍を打ち破りたいと考えております。もし、勝利することが出来ましたら皆日本に大いなる感謝をするでしょう。明王朝の仇を討ちたく思います」という切実極まるものでした。その回数は合計23回(1645~1686年)に及びます。ことに第4回目のものに対しては、徳川御三家が派兵に積極的で特に家康の十男であり戦国の気風を有して豪気で知られた紀州徳川家の当主頼宣は「天下に浪人を募ったらすぐに10万人位は集まるだろう。自ら総大将になって攻め入り、日本武士の手並みを見せてやろう。あぶれている浪人対策にもなる」と大乗り気でしたが、幕閣は頼宣を警戒していたとされます。由井正雪の慶安の変の黒幕説もあり幕閣からは何かと問題にされる人物でもあったのが鄭成功の不幸であった。その後、幕閣が検討を重ねましたが、ちょうど内政に多くの困難な事案を抱えており正規に派兵をするというところまでには至りませんでした。また、明との関係もある薩摩においても援軍の準備がなされ、やる気満々でしたが、出兵には至りませんでした。しかしながら、日本には、巷に浪人が余っており、由比正雪の乱が起こるなどしていた時期で、彼らが自発的に傭兵として鄭成功軍に馳せ参じました。その数は数千人に及んだという説もあります。日本側は清への手前、公式に援助を行なうことが出来ないため、鄭氏の交易利権(長崎貿易)を黙認することによって間接的に援助しました。日本武士は甲冑に身を固め、頬当を付け、三人一組で戦い、鉄人と呼ばれ恐れられました。一人が大盾を持ち、その後ろで長刀を持った一人が馬の足を払い、さらに一人が刀で落馬した兵を切り殺したといいます。さすがの韃靼騎馬兵(満州族)もこの日本武士の訓練された巧妙なチームワークの前に屈したので、鄭成功軍は陸戦でも優位に立ったといいます。
(「明王朝復活にかけた 鄭成功」参照)

『琉球伝・武備誌』エピソード91

<台湾占拠>
 鄭成功は台風で三分の一の船を失った北伐失敗後には再び舟山に駐留し、勢力を立て直すために台湾に向かっています。その頃の台湾は、オランダ人が支配していました。鄭成功が台湾を本拠とするためには、まずオランダ人を台湾から追い払う必要があったのです。1661年3月、鄭成功は約百隻の船に2万5千人の兵を乗せて厦門を出発し、4月2日に台湾本土にあるプロヴィンシャ城(今の赤嵌楼)の付近に上陸しています。では、鄭成功が如何にしてオランダ人台湾からを追い払ったのでしょうか。菊池寛の著書を引用します。
「…時のオランダ台湾総督コイエットは、4月5日、2人の評議員に通訳をつけて国姓爺の陣営に赴かせ…使者は、二城とその付近の沃野の領有を前の通り認めてほしい旨を申し入れました。国姓爺は静かに使者の言葉を聞いていましたが、やがて口を開いて、『自分は清の軍と戦争の都合上、台湾を占領しようとするのである。もともとこの地は支那のものであるから、オランダ人は、これを正当な旧主に明け渡さねばならない。自分はオランダ人を相手に戦争をしようとも、その財産を奪おうとも考えていない。城を壊してその材料及びその私財を持ち帰ってよろしい。ただ一刻も早く、この事を実行して欲しい。もしもオランダ側にて、24時間以内に、この要求に応じないならば、その時は、こちらも、採るべき方法を実行に移すばかりである。』と申し渡しました。使者の帰りを迎えたゼーランジャ城では、その報告を聞いて、兵数は少なく、武器も余り多くはないが、どこまでも城を死守して抗戦することに決し、降伏の勧告を拒絶しました。そして真赤な戦旗を城頭高く掲げました。到底かなわぬまでも、38年の間に築き上げた台湾における今の地位を、一戦も交えずに国姓爺に渡すことは、彼らの誇りが許さなかったのです。」鄭成功(国姓爺)はプロヴィンシャ城を降伏させた後、ゼーランジャ城を攻めたのですがオランダの守りは堅かったのでした。鄭成功は城を包囲して、食糧攻めでオランダの降伏を待つこととしました。そして籠城9か月目となる12月の初めに、鄭成功はゼーランジャ城の一斉攻撃を開始しています。オランダも勇敢に応戦したのですが、終に鄭成功に休戦を申し込むこととなりました。籠城中に戦死や病死したオランダ人の数は、1600人にも達したといいます。鄭成功は、孤立無援のゼーランジャ城を9カ月にもわたって護ったオランダ人に名誉の開城を許し、「バタビアに引き上げるオランダ兵士は、充分に武装し、国旗をひるがえし、隊伍堂々と鼓を鳴らして乗船することができた」のだといいます。残念なことに鄭成功はオランダ人を台湾から追い払い、承天府及び天興、万年の二県を抑え澎湖島には安撫司を設置して本拠地としたものの、長年の過労からか病を得て志半ばにして翌年の1662年の6月に病死してしまい、明朝の再興は果たすことはできませんでした。その後の抵抗運動は息子の鄭経に引き継がれます。鄭経は鄭成功の長男として生まれました。1661 年に父・成功が台湾を攻略した際には廈門の留守を預かっていました。翌1662 年に父が没した後、後継者を巡り在台湾の政権幹部らが擁立した叔父(鄭芝龍の五男)鄭襲と争ってこれを破り、鄭氏政権を継ぎました。1663 年には父を祀る鄭成功祖廟を現在の台南市に建立しています。国共内戦に破れて台湾に敗走した中国国民党にとって、いきさつの似ている鄭成功の活躍は非常に身近に感じられており評価が高かった為、中華民国海軍のフリゲートには成功級という型式名がつけられています。歴史上の鄭成功は、彼自身の目標である「反清復明」を果たす事無く多恨の生涯を閉じ、また台湾と関連していた時期も短かった(鄭政権として23年間)ですが、鄭成功は台湾独自の政権を打ち立てて台湾開発を促進する基礎を築いたことも事実である為、鄭成功は今日では台湾人の不屈精神の支柱・象徴(開発始祖)として社会的に極めて高い地位を占めています。台湾城内に明延平郡王祠として祀られており、毎年4月29日復台記念式典が催されています。
(「明王朝復活にかけた 鄭成功」参照)

『琉球伝・武備誌』エピソード90

<抵抗運動の継続>
 その後、広西にいた万暦帝の孫である朱由榔(しゅゆうろう) が永暦帝を名乗り、各地を転々としながら清と戦っていたので、鄭成功はこれを明の正統と奉じて、抵抗運動を続けます。そのためにまず厦門島を奇襲し、意見の相違する従兄弟達を殺す事で鄭一族の武力を完全に掌握しました。因みに永暦帝の皇太后・皇后以下主要廷臣にはカトリック教徒が多かったそうです。1658 年(明永暦12年、清順治15年)、鄭成功は北伐軍を興します。軍規は極めて厳しく、殺人や強姦はもちろん農耕牛を殺しただけでも死刑となり、さらに上官まで連座するとされました。北伐中には1カ月に渡り舟山に駐留して練兵しています。戚継光が拳法を学んだと著した舟山は、当時、監国(皇帝の代理)と称する朱以海が亡命政権を築いていましたが、清軍に追われた後、鄭成功に庇護を求めました。厦門島と金門島を中心とした彼の勢力は、20万程の軍兵を擁し、1655年には鄭成功はその舟山を奪還しています。意気揚々と進発した北伐軍でしたが途中で暴風雨に遭い、300隻の内100隻が沈没しました。鄭成功は温州で軍を再編成し、翌年の3月25日に再度進軍を始めました。鄭成功軍は南京を目指し、途中の城を簡単に落としながら進みますが、南京では大敗しました。
(「明王朝復活にかけた 鄭成功」参照)

『琉球伝・武備誌』エピソード89

<明の滅亡>
 1644 年、明に反乱を起こして、既に新順王と称して大軍を率いていた李自成が北京に迫りました。李自成軍の包囲の前に崇禎帝( すうていてい) は自殺し、明は滅亡、李自成が大順を建て自ら新皇帝(順)を名乗ります。都を逃れた旧明の皇族たちは南では南明を建てて対抗しました。鄭芝龍らは唐王朱聿鍵( しゅいつけん) を擁立しましたが、この時、元号を隆武と定めたので、朱聿鍵は隆武帝と呼ばれます。新皇帝順(李自成)はそれまでは軍規が厳正であり民の支持を得ていましたが、北京入城後は雑多の勢力を糾合したことから軍規が乱れ、略奪や暴行や殺人が横行したことにより民心が離れたことや、東北地方では満州族の清に対して、精兵を率い前線の重要拠点である山海関( さんかいかん) を守っていた明将呉三桂が清に投降して剽悍な清の軍勢を引き入れたことにより、遂に李自成は敗れて北京は落城して李自成は逃亡中に殺されました。中原に女真族の流れを引く満州民族の王朝が立つことは覆しがたい状況となり、隆武帝の政権は清の支配に対する抵抗運動にその存在意義を求めざるを得なくなりまし。そんな中、ある日、鄭森(後の鄭成功)は父の紹介により隆武帝の謁見を賜ります。帝は眉目秀麗でいかにも頼もしげな鄭森のことを気入り、「朕に皇女がいれば娶わせるところだが残念でならない。その代わりに国姓の『朱』を賜ろう」と言いました。それではいかにも畏れ多いと、森は決して朱姓を使おうとはせず、自ら鄭成功と名乗りましたが、以降、人からは「国姓を賜った大身」という意味で「国姓爺」(「爺」は老人ではなく「御大」や「旦那」の意)と呼ばれるようになります。尚、近松門左衛門の作品では、国姓爺ではなく国性爺となっている。近松の作品は脚色が多く史実と異なる部分も多いので敢えて「姓」を「性」に変えたと思われます。隆武帝の軍勢は北伐を敢行しましたが大失敗に終わり、隆武帝も清軍に捕らえられて絶食の末に自決、父・鄭芝龍はこれ以上の抵抗運動は成功の見込み無しとして清に降りました。父が投降するのを成功は泣いて止めましたが、芝龍は翻意することなく、父子は今生の別れを告げます。成功は父の勢力を引き継いで台湾に拠り、明の復興運動を行い清に抵抗したため、芝龍は成功の懐柔を命じられますが、成功がこれに応じなかったため、謀反の罪を問われて、1661 年に北京で処刑されたといいます。
(「明王朝復活にかけた 鄭成功」参照)

『琉球伝・武備誌』エピソード88

<鄭成功>
大明天啓4 年7 月14 日(1624 年8 月27 日)~大明永暦16 年5 月8 日(1662 年6 月23 日)中国明代の軍人、政治家。元の諱は森( しん)。字は明儼( めいげん)。日本名は福松。「反清復明」をスローガンに清に滅ぼされようとしている明を擁護し抵抗運動を続け、後に台湾に渡り鄭氏政権の祖となりました。俗称を国( こく) 姓爺( せんや)。台湾・中国では民族的英雄として描かれており、特に台湾ではオランダ軍を討ち払ったことから、孫文、蒋介石と並ぶ「三人の国神」の一人として尊敬されています。鉄人(鉄の甲冑を着込んでいたための呼び名)や倭銃隊と呼ばれた日本式の鎧を身に纏った鉄砲隊や騎馬兵などの武者を巧みに指揮したことでも有名です。日本でも近松門左衛門が人形浄瑠璃「国性爺合戦」
を創作し、後に歌舞伎でも上演され評判となりました。
<人物・来歴>
 日本の平戸で父・鄭芝龍と日本人の母・田川松の間に生まれました。成功の父、芝龍は大陸の福建省の人で、平戸老一官と称し、時の第二十八代藩主松浦隆信の寵を受け川内浦に住み、浦人の田川松を娶り二子を生みました。二人に、福松と七左衛門と名付けました。 たまたま、母・松が千里ヶ浜に貝拾いに行ったところ、俄に産気づき家に帰る暇もなく、浜の木陰の岩にもたれて出産しました。この男児こそ、幼名福松であり、後の鄭成功です。千里ヶ浜の南の端に鄭成功にちなむ誕生石があります。幼い頃は平戸で過ごしますが、7歳の時に父の故郷福建に連れて来られます。鄭芝龍の一族はこの辺りのアモイ(廈門。福建の南部)などの島を根拠に密貿易を行っており、政府軍や商売敵との抗争のために私兵を擁して武力を持っていました。15歳の時、院考に合格し、南安県の生員(中国明朝及び清朝において国子監の入試(院試)に合格し、科挙制度の郷試の受験資格を得た者のことをいう)になりました。明の陪都(国都に準じる扱いを受けた)である南京で東林党(中国、明朝末期の江南の士大夫を中心とした政治集団・学派)の銭謙益に師事しました。
(「明王朝復活にかけた 鄭成功」参照)

『琉球伝・武備誌』エピソード87

鄭芝龍(1604~1661年)中国明朝末期に中国南部および日本などで活躍した貿易商、海賊、官員でした。字は飛黄、飛虹。彼は閩南語、南京官話、日本語、オランダ語、スペイン語、ポルトガル語を話し、剣道を得意とし、スパニッシュ・ギターも弾けたと言います。地元では戚継光の生まれ変わりと言われていた文武両道に優れた青年でした。弟に鄭芝虎、鄭芝豹、鄭鴻逵(鄭芝鳳)、従弟に鄭芝莞(鄭芝鶴)。子に鄭成功(国姓爺)と田川七左衛門の2人の息子がいます。1604年、福建省南安市に生まれました。18歳の時に父が死亡し、母方の叔父を頼りマカオに赴き、黄程の元で経済学を学びました。この頃、カトリックの洗礼を受け、Nicholas という洗礼名を授けられます。西洋の文献には、Nicholas Iquan(ニコラス・一官)と記されています。1621年には、台湾や東南アジアと朱印船貿易を行っていた中国系商人の李旦あるいは顔思斉の傘下に加わりました。日本の肥前国平戸島(現長崎県平戸市平戸島)に住むうち、平戸藩士田川七左衛門の娘であるマツと結婚しました。後に、息子の鄭成功が生まれています。1624年には活動拠点を日本から台湾笨港(現:北港付近)に移しました。1625年、リーダーである李旦あるいは顔思斉の死亡により、彼の船団を受け継ぎました。船団は千隻もの船を保有して武装化も進めるなど海賊としての側面も有していました。台湾南部にオランダ人の入植がはじまると、妻子を連れて中国大陸へと渡ります。当時、福建省周辺でもっとも強い勢力をもった武装商団となりました。1628年、福建遊撃に任命され、李魁奇、鐘斌、劉香などのかつての仲間たちを征伐します。福建省に旱魃が襲うと、移民をひきつれて台湾へと向かい、豊富な資金援助を持って、開拓を進めました。当時、台湾南部はオランダ東インド会社が統治しており、オランダとの国際貿易で巨万の富を築きました。1644年には亡命政権である南明の福王から南安伯に封じられ、福建省全域の清朝に対する軍責を負います。1646年には黄道周との対立などで南明政権から離れます。この時、意見の違いから子の成功らとも別れ、清朝に降伏します。成功は父の勢力を引き継いで台湾に拠り、明の復興運動を行い清に抵抗したため、芝龍は成功の懐柔を命じられましたが、成功がこれに応じなかったため、謀反の罪を問われて、1661年に北京で処刑されました。享年58歳でした。
(「明王朝復活に賭けた 鄭成功」参照)

『琉球伝・武備誌』エピソード86

<李旦と顔思斉は同一人物?>
李旦(?~1625)
福建省泉州の人。王直の配下でした。海商としてマニラに渡り、華僑の頭目となりました。スペインに逮捕されて投獄されましたが逃亡し、日本の平戸に居を移しました。徳川幕府の朱印状を受けて、台湾・ヴェトナム・ルソンと交易し、蘭・英と現地人の仲立ちを勤めたと言われています。1622年、オランダが再び澎湖を占領し、明国に通商を強要して拒絶され、戦闘にもなっていた時に、明国軍に包囲されて進退谷まっていたのですが、李旦はまずポルトガル語ができる鄭芝竜をオランダ軍のもとに派遣して連絡ルートを確保するとともに、福建の貿易パートナーである許心素にも連絡しました。許心素は対オランダ包囲軍の副司令官でもあります。李旦は彼に、「オランダを攻撃せず、台湾へ引き取ってもらえ。そしてその見返りとして明国との通商を認めてやれ。その後は俺とお前とオランダで手広くやろう」と持ちかけました。これを受けて許心素の明軍はオランダ軍と交渉し、台湾へ引き下がらせたのです。このようにして1624年、オランダの台湾統治時代が始まりました。オランダは今の台南を拠点に、来航する支那船を相手に交易を開始しました。李旦の死後、その勢力は鄭芝龍に引き継がれました。
顔思斉(1588~1625)
字は振泉。福建省海澄の人。勢家の出でしたが、家僕を殴打して死なせ、罪を恐れて日本に逃れたと言われています。日本甲螺(こうら)と称していました。甲螺とは、日本語のカシラであり、つまり頭目です。日本で交易に従事するうち、楊天生・洪陞らとともに平戸で乱をくわだて発覚して出国しました。台湾に逃れて、諸羅山一帯を開拓しました。のちに海賊の首領となって、福建・浙江沿海を攻略しました。天啓五年(1625)に病没すると、三界埔山に葬られました。
しかし、顔思斉の名は歴史文献には余り記されていません。日本の文献には顔思斉の名は見受けられず、中国の文献には時々現れるだけです。中国近代史のリサーチでは、顔思斉は李旦とは同一人であり、またフィリッピンのマニラでアンドレア・ディッテイス(Andrea Dittis)であることが明らかになりました。日本ではキャプテン・チャイナ(Captain China)の英語名で英国人やオランダ人に知られていたそうです。ともあれ、顔思斉あるいは李旦は交易及び海賊稼業で財をなし、財や官憲とのコネで貧乏人を救い、有力な友人をつくりました。それだけでなく、顔思斉は平戸の中国人コミュニテイのリーダーになり、またオランダの初代総督ソンク(Marten Sonk)の通訳をも務めました。平戸を去った後、台湾で個人の海賊領地を支配していたのでした。写真は顔思斉が台湾の笨港(現在の雲林北港と嘉義新港一帯)から上陸して開墾を行った記念碑です。
(「台湾はいかに歴史に登場したか」「国民党ニュースネットワーク」参照)

『琉球伝・武備誌』エピソード85

<林鳳>
林鳳に関する日本の資料は少ないのですが、とても貴重な情報をフィリピンの歴史教科書から得られましたので紹介します。
中国明末の海賊の首領。スペイン側の記録では、リマホン(Li Ma hong)として知られています。広東の潮州府饒平県 (広東省饒平県) の出身で、祖父の代から海寇の首領として東・南シナ海に活躍しました。当時の海寇は武装商人団的性格を持ち、倭寇とも結んで海上を跳梁しました。彼はスペイン人のマニラ建設後、ルソン島に進出し、1574年にはマニラ市内に侵入してスペイン政庁側に脅威を与えましたが、ついに撃退されました。 15~16世紀にかけて、中国明王朝の沿岸は「倭寇」と呼ばれる海賊が荒らしまわっていました。倭寇の「倭」は日本を意味するものの、海賊は日本人、中国人、朝鮮人、シャム人らによるもので、中でも林鳳(Li Ma Hong)は16世紀でもっとも有名な倭寇の一人です。1572年に6隻の船から海賊を始めた林鳳は、2年後には200隻と10,000人の軍勢を率いていました。
スペイン人Friar Gaspar de San Agustinの記述によれば、明皇帝は林鳳に対し、海賊行為の中止と引き換えに恩赦と報奨金を提案しました。しかし、林鳳が皇帝の使者を殺害したため、皇帝は最強の軍人に倭寇・林鳳の殲滅を命じ、林鳳は中国湾岸から追われる身分になりました。太平洋を東に向かった林鳳の向かう先には、スペイン人が支配する諸島がありました。(スペイン人コンキスタドール(征服者、探検家)、ミゲル・ロペス・ド・レガスピ(Miguel Lopez de Legazpi)は、1565年から1570年にかけて、原住民、小規模なイスラム王国、現地のポルトガル人らと戦い、ルソン島のマニラを占領しました。レガスピはマニラに城壁都市を作り、そこはイントラムロス(壁の内側)と呼ばれるようになりました。レガスピは、フィリピンを構成する三大地域(ルソン島周辺・ヴィサヤ諸島・ミンダナオ島周辺)の大半を支配し、初代フィリピン総督となって、マニラを貿易の拠点としました。
1574年10月、ジャンク船を捕獲した林鳳は、南にフィリピン諸島があること、マニラの砦が貧弱で大砲も守備兵も少ないことを知ります。マニラを征服することを決意した林鳳は、最強の海軍を編成、その船団は150~200トンの62隻のから成り、計2,000人の男と1,500人の女が乗船するものでした。11月23日の夜、フワン・デ・サルセド(Capt. Juan de Salcedo)がルソン島北部で南下する正体不明の船団を発見しました。付近を通過したスペイン船をその船団が焼き払ったため、その船団がスペイン国家に敵対するものであることは間違いありませんでした。サルセドは、原住民が漕ぐ7隻のボートでマニラに向けて逃げました。当時、スペイン兵の大半はパトロールと遠征に出ていたため、イントラムロスは無防備でした。サルセド自身も80名の兵士しか率いていませんでした。11月29日の夜、林鳳の船団はカビテ湾内のコレヒドール島 (Corregidor、マニラから西に約45kmの小島、マニラ湾の入り口にある)まで進み、翌日、林鳳の日本人副将シオコ(Sioco)が上陸しました。スペイン人にとって幸運なことは、上陸地点がマニラから遠く離れていたため、防衛の準備の時間が作れたことでした。家々を放火しながら前進した中国人はスペイン軍と遭遇、3時間の交戦で8名のスペイン兵が死亡しました。約20名のスペイン兵の増援がやってくると、それを大部隊の一部と思ったシオコは全兵力を撤退させ、母船に戻りました。翌日、マニラを攻めるため、林鳳は全軍に休憩を命じました。状況は倭寇にとって依然有利でした。スペイン軍は島々のすべての兵力をあわせても500名しかなく、マニラ市を守備するラバザレス総督(Gov. Lavazares)は150名の兵士と数門のキャノン砲しか持っていませんでした。その日倭寇がマニラを攻めなかったのはスペイン人にとって奇跡以外の何ものでもありませんでした。マニラ守備隊は杭で壁を作り防備を固めました。守備隊にとってよいニュースはその夜、サルセドの部隊が帰還したことでした。12月1日早朝、林鳳は1,500名をシオコに与え、上陸を命じました。倭寇を乗せたボートは部隊をマニラに上陸させるとすぐに母船に戻りました。すなわちシオコらに撤退のオプションはなかったのです。シオコは上陸部隊を三派に分け、橋や教会を焼きながら前進しました。シオコの戦術は集団による正面突撃であり、スペイン軍の砲火によって多大の犠牲を出しながら、イントラムロス内に侵入しました。しかし、シオコらはイントラムロス内の肉弾戦に破れ、続いて林鳳が送った400名の部隊もスペイン軍に破れました。マニラ征服を果たせなかった林鳳は、報復としてマニラ5km南のパラニャーケ(Paranaque)の住民を全員殺害、200km北のパンガシナン(Pangasian)を占領、原住民にはスペイン人との戦争に勝ったと言い、同地域の原住民を支配、Ango川河口に木造の砦を建設しました。ラバザレス総督が恐れたことは、林鳳が原住民を組織し、反撃に出ることでした。総督はサルセドに250名の兵士と1,500名の原住民、4門のキャノン砲を与え、倭寇の掃討を命じました。サルセドは数隻のスペイン船と70隻の原住民のボートで出発、3月に林鳳と遭遇、200名の倭寇を殺害し、彼らの船のほとんどを燃やしました。ところが、河口に築かれた砦は二度におよぶスペイン兵の攻撃を跳ね返し、サルセドは包囲して補給を絶つ作戦に切り替えなければなりませんでした。包囲戦に対し、林鳳は小型舟部隊を繰り出し、付近の原住民からの食料や燃料の調達を続けました。篭城戦がはじまって二ヶ月が経過したある日、林鳳を追ってきた明の将軍・王王高?Wang Wao Kaoがパンガシナンにやってきました。Wang Wao Kao将軍は篭城戦に加わりますが、林鳳は密かに脱出用のボートを建造していました(一説には脱出用の水路も掘っていたと言われる)。それから二ヵ月後、すなわち篭城がはじまってから4ヶ月後の8月3日、林鳳は37隻の船で脱出に成功します。この時、林鳳がサルセドと激しく交戦しながら脱出した水路は、現在でもLi ma hong水路と呼ばれています。スペイン人は、林鳳らの粗末な船では南シナ海を横断できず、全員死亡したと考えていましたが、林鳳は中国湾岸に戻っていました。そこでも200隻の明軍に追われ、1576年に林鳳はシャムに逃れます。そこで林鳳は財宝と引き換えに保護を求めますがシャム王はこれを拒否、その後の林鳳の足跡は、いかなる文献にも残されていません。
(「フィリピンの歴史教科書から学ぶ」参照)

『琉球伝・武備誌』エピソード84

王直以外の倭寇の頭目及びその後継者たちを紹介します。
<武闘派倭寇・徐海(?~1556)>
明代の倭寇の頭目。法名は普浄、通称は明山和尚。自称天差平海大将軍。徽州歙県の生まれで、幼くして杭州の虎跑寺に預けられます。彼が海に出たのは、王直が陳思盻を滅ぼして海上を制覇した嘉靖30年(1551年)です。僧侶の暮らしに飽きが来たらしく、王直の腹心であった叔父の徐銓を頼って貿易拠点の烈港に出ています。徐銓は徐海を日本へ連れて行き、大隅に滞在しました。彼を見た日本人が「明の生き仏さまが来た」と大歓迎し、彼のために船を一艘仕立てたという不思議な話もあります。翌嘉靖31年(1552年)、徐海は辛五郎ら日本人の部下を連れ、徐銓に従って明に向かいました。そして烈港に入ったのですが、ここで一つの事件が起こります。王直と徐銓が官軍の依頼で海賊の討伐に出かけていたのですが、まさにこの時に徐海の部下の日本人が港を出て商船に海賊行為を働いたのです。被害にあった商船はそのまま烈港に入りましたが、乗員が港の中で見覚えのある顔を見つけ、そしらぬふりで跡を付けて、それが徐海の部下であることを確認しました。この事実はただちに王直に報告され、王直は徐海を呼びつけて「我らは港を出て賊を捕らえに行ったが、まさか港の中に賊がいるとは知らなかったわ!」と烈火のごとく怒ったといいます。これを素直に聞く徐海ではなく、怨んだ徐海は王直の殺害を画策します。危険を察した徐銓がこれを制して事なきを得ましたが、以後王直と徐銓の間は疎遠となっていきます。その後、徐銓は大隅に戻りますが、ここで地元の商人に大金を借り、徐海をその質として置いていきました。以後、徐銓は広東の林国顕の義児となり、広東方面で活動します。徐海自身は薩摩・大隅の日本人を主力として、浙江方面への侵攻活動を行うようになります。嘉靖34年(1555年)、崇徳を攻略した徐海は妓女の王緑妹・王翠翹の二人を得て自分の妻としています。このうち王翠翹は次第に徐海の愛情と信頼を得て、彼の周囲を取り仕切るようにまでなります。寇掠から帰ってきた徐海は来日した弟の徐洪から叔父・徐銓の広東での死を知らされます。翌嘉靖35年(1556年)、徐海は叔父の復讐のために広東への遠征を図りますが、叔父に金を貸した日本商人らの圧力もあって従来通り浙江へと向かうこととなりました。徐海は腹心の辛五郎、薩摩の掃部、種子島の助五郎、日向の彦太郎、和泉の細屋らを引き連れて海を渡り、3月頃に大陸に上陸、柘林(しゃりん)に根拠地を構えました。ここに陳東・葉麻らの率いる「倭寇」集団が連合し、20,000人が徐海を盟主と仰ぐこととなります。徐海は占いに長けていたとも言われ、各都市の攻略も彼の占いによる指示に従って行われたとも言います。 徐海は海塩、嘉興など各都市を攻略しましたが、4月21日の皀林での宗礼将軍率いる官軍との戦いで勝利を得ながらも重傷を負いました。そのまま桐郷を包囲しましたが傷のために意気が上がらなかったようで、そこを総督・胡宗賢につけこまれます。胡宗賢は日本から帰国したばかりの陳可願を使者として徐海に官軍への降伏を呼びかけました。呼びかけに応じた徐海は桐郷の囲みを解き、陣地を構えて官軍と使者による交流を行うことになります。胡宗賢は徐海と人質の交換を行う一方、徐海の愛人・王翠翹を官軍に内通させ、徐海と葉麻・陳東の間に離間策をしかけました。まんまと罠に嵌まった徐海は葉麻・陳東を次々と捕らえて官軍に突き出します。やがて徐海は日本への帰還を断念して沈荘に拠点を構え、地元住民らを戦力として強制的に徴発するなどそこに居座る姿勢を示しました。これに対し胡宗憲は陳東・葉麻らの残党を利用して徐海を包囲し、ついに奇襲攻撃をしかけました。 奇襲を受けた徐海は王緑妹・王翠翹の二人を連れて逃れましたが、間もなく陳東の残党に追いつかれ、水に身を投げて自ら命を絶ちました(直接殺害されたとする資料もある)。副将の辛五郎も捕らわれ、徐海集団はここに壊滅しました。定番のフレーズですが、江南の親は言うことを聞かない子に「徐海が来るよ」と言って脅したという話まであります。それ以外にも徐海については地方に数々の逸話・伝説が残っており、その倭寇史上における存在の大きさを物語っています。
(「俺たちゃ海賊!激動の東アジア史」参照)

『琉球伝・武備誌』エピソード83

<倭寇王直の最期>
嘉靖期に暴れまわった倭寇でしたが、王直自身にも心境の変化が起きたようです。生年が不詳なので年齢は定かではありませんが、少なくとも老境に入らんとする頃でしょう。1557年、淅江総督・胡宗憲が王直の母と妻子を杭州に呼び止め、王直に帰国を促す手紙を出します。明朝に帰順して海賊禁圧に協力すれば、彼が舟山列島で貿易を行うことを公認すると持ちかけました。明朝から派遣された州と陳可願の二人が五島で王直と話し合っています。王直はこの提案を罠であろうと思いながらも、帰国に同意します。「故郷忘じがたし」という心境であったのでしょう。同年10月、中国に帰ります。案の定、王直は拘留されました。胡宗憲自身は王直の帰順を認めるつもりだったといわれています。しかし、明の朝廷の強硬論におされ、1559年12月、王直を処刑せざるを得ませんでした。
嘉靖期の終わりは、王直時代の終焉でもありました。王直の処刑以降、倭寇の活動の中心は杭州・淅江から福建や広東など南方に移っていきます。機をみるに敏なポルトガル人は明官憲の倭寇の鎮圧に協力し、1557年にはマカオに居住することを許可され、ここを貿易拠点として中国や日本との交易を本格化させます。1567年には海禁令も緩和されます。日本では、1588年7月8日、豊臣秀吉が「賊船の停止」令を出します。さらに朝鮮出兵により日本人海賊は大幅に減少しました。秀吉の死後、1598年、五大老(前田利長・上杉景勝・毛利輝元・宇喜多秀家・徳川家康)は連名で平戸に書状を送っています。その内容は、「先年、豊臣秀吉から発布された海賊停止令を破り海賊を行う者がいる。今後、海賊行為があったなら、領主共々成敗をする。船の出入りを厳重に注意すること。」これ以降、倭寇は姿を消し東シナ海域が沈静化していきます。
(「王直と倭寇」参照)

『琉球伝・武備誌』エピソード82

<倭寇王直>
王直は明朝の「お尋ね者」になりました。六横島の双嶼港を明軍に破壊されたあと、倭寇は同じ船山諸島に幾つかの拠点を分散しました。1300以上の島があるため隠れて密貿易を継続するのはそんなに難しいことではなかったでしょう。双嶼港攻撃を受けた密貿易者のうち、あるものは舟山諸島の他の島へ移り、あるものは淅江・福建に移動し、密貿易・海賊行為・略奪を行いました。王直は舟山列島に残り、密貿易を続け、東シナ海全域の密貿易を牛耳ります。ポルトガル商人は、西に逃げ広州湾を拠点として勢力回復をはかります。のちに中国官憲に協力し、1557年にマカオを貿易拠点とすることを認められます。1550年6月に王直の手引きでポルトガル船が初めて平戸へ来航したことは、前に記した通りです。1552年4月に、倭寇が台州を襲いました。その中心人物は「徽の人, 汪直」といわれています(『明倭寇始末』)。『明史』には次のように記録されています。「大悪党の汪直・徐海・陳東・麻葉のごとき輩は、日頃から倭人の中に喰い込み、(明)国内では勝手にふるまうわけにはいかないので、すべて海上の島に逃れて奸計の采配をふるった。倭人たちの言いつけに従えば、彼らを誘って(明)本土を略奪した。外海に出たこれらの大盗賊は、やがて倭人の着物や旗じるしをまねて用い、船団をいくつかに分けて本土に侵攻して略奪し、一人残らず大いに懐を肥やした。そこで、(明)朝廷で検討した結果、 巡撫を復活させることになり、嘉靖31年(1552), 僉都御史の王忬をこれに当てた。)しかしながら、倭寇の勢力は、すでに撲滅しきれなくなっていました。明軍は非常事態の発生で急いでかき集められた訓練もろくに受けていない兵が多く、軍船も漁船を急遽転用したものでした。明朝は倭寇の侵攻に対してお手上げ状態だったことがわかります。ここに登場する徐海は、王直と同じ徽州府歙県の出身で、薩摩・大隅地方を拠点とし、中国沿岸を襲撃した武闘派倭寇でした。彼は、数万の倭寇集団を率いて杭州湾に上陸し、江南・淅江一体を荒らし回りました。『明史』は続けて「これら賊軍のあらましは、真の倭人は十人のうち三人で、残りの七人は倭人に寝返った中国人だった」と述べています。1550年代以降、倭寇のなかの「倭奴」の割合はすでに1~2割に減っていたという記録もあります。1553年には、明軍によって倭寇が舟山諸島の瀝港から追われました。ここに拠点を築いたのは王直でした。彼は根拠地を五島と平戸に移すとともに明朝に対し大反撃にでます。『明史』の記録を追っていくと、倭寇の侵攻した土地は、1554年1月には太倉から蘇州、松江、通州、泰州に、4月に嘉善、崇明、蘇州、崇徳に、6月には呉江、嘉興、拓林に、といった具合で、「縦横に来住し、無人の境に入るが若ごとし」であったといいます。翌1555年になると、70人程度の倭寇が「数千里を席巻」し、中国側の死者は4000人近くにのぼり、80日余り動乱が続いたあげく、やっと滅ぼされました。朝鮮半島に目を転じると、同じ1555年に倭寇が70余隻で全羅南道の康津・珍島一帯に侵入し、略奪を行いました(乙卯倭変)。これも王直が指揮したといわれています。『李朝実録』によれば、1556年4月1日、朝鮮で倭人が反乱を起こそうとしているという情報を入手した対馬島主・宗氏が朝鮮朝廷に報告しました。首謀者のなかには中国人もおり、彼は「五峯」と名乗り、倭人を率いて明を襲撃すると称しています。前期倭寇は食糧の他に人々を捉え、これを奴隷として使役したり売却したりしたと述べました。後期倭寇はさらに大規模な奴隷貿易を行っています。中国東南部の江南・淅江。福建などを襲撃し人民を拉致した倭寇は対馬・松浦・博多・薩摩・大隅などの九州地方で奴隷として売却しました。これらの奴隷は、牛馬の飼育や薪取り、水汲みなどの仕事をさせられました。さらに彼らの一部はポルトガル商人によってマカオに転売され、そこから東南アジア・インドに送られていきました。
(「王直と倭寇」参照)

『琉球伝・武備誌』エピソード81

<海商王直>
王直は1540年に五島に来てから1557年に平戸を去るまでずっと日本に滞在していたわけではありません。この間、王直は密貿易海商として東シナ海域を忙しく駆け巡っていました。中国の時代区分でいう嘉靖期(1521~1566)は倭寇の絶頂期でした。これを称して「嘉靖の大倭寇」といいます。1522年から1566年の間に倭寇が中国東南部沿岸に侵入した回数は、記録に残っているものだけでも548回に及びます。すでにみたように三浦の乱(1510年)で日朝関係は一時断絶になり、寧波の乱(1523年)により日明間の公式貿易はしばらく途絶えることになりました。その後に派遣された遣明船は1540年と1547年の2回のみで、1551年に大内氏が滅亡すると勘合貿易は途絶えてしまいました。「名ばかり将軍」の足利義輝(在位1546~65)のもとで幕府の権威は地に落ち、戦国大名が各地に割拠するようになります。国内の飢饉は米価の高騰をもたらし、方々で略奪がさかんになります。こうして東シナ海域の国家基盤や国家間の正式関係が揺らいでくると公式の貿易は衰退に向かっていきます。それにかわって、16世紀の半ばから活躍するのは、密貿易に励む後期倭寇とポルトガル勢力です。前期倭寇と後期倭寇に共通するのは中央政府の統制が緩んでいた時期に活発化したという点です。1545年、王直は博多へ行って、助才門(助左衛門)ら3人の日本人を密貿易の仲間に引き入れ、本拠地の双嶼へ連れて行きます。1548年には、王直は舟山諸島の馬蜻潭で日本人と密貿易を行ったという記録があります。その王直が中国官憲から追われるようになった経緯について述べます。1540年から海商王直は淅江省餘姚の謝氏と順調な取引関係にありました。王直は外国人商人と謝氏の間に立って取引をしていましたが、あるとき謝氏と王直らの海商との間でおそらくは取引上のもめごとがあったのであろう、謝氏が海商らの行為を官憲に密告しようとしました。そこで王直は外国人と結託し、謝氏の自宅を夜襲し、男女数人を殺害し、略奪行為を行います。恐れをなした餘姚県の官吏が上級機関に「倭寇の襲撃」と報告しました。これを受けて, 淅江巡撫の朱紈が犯人捕縛の命令を出します。この事件によって、王直は「海商」「密貿易商」から「倭寇」とみなされるようになります。朱紈が巡撫に任命されたのが1548年で、この出来事を記録した『世宗実録』の日付が1549年7月5日であることから、この出来事があったのは1548~1549年頃と絞り込むことができますが、さらに1548年に明朝が密貿易の拠点である双嶼港を攻撃し、破壊しつくし、これ以後王直は拠点を移したという史実から、1548年の事件と思われます。
(「王直と倭寇」参照)

『琉球伝・武備誌』エピソード80

<王直と日本>
王直に関する様々な歴史上の資料には「1540年(頃)に~」という記述が多く、この年(頃)の彼の行動範囲はシャムから日本まで広範囲に及んでいることを表しています。これらの資料を整理してみると次のような姿が浮かんできます。王直は厦門の葉宗満らと広州に赴き、同地で大型船を造船し、当時は輸出禁止品であった硫黄や生糸、真綿などの貨物を積んでシャムや呂宋、安南、マラッカ、日本などに出かけて、巨万の富を蓄財しました。王直が各地で購入した物品を箇条書きすると次のようになります。
シャム, カンボジア=蘇木, 胡椒, 犀角, 象牙
マニラ=メキシコ銀
景徳鎮=陶磁器
湖州=生糸
松江=綿布
福建=紗絹, 砂糖, 糖菓
これらの品を日本や東南アジアに運んで、商売を行ったのです。ここで王直に関する国内の資料などを検討してみます。長崎歴史文化博物館の2階にある常設展パネルには, 王直(塩商人)について「天文九年(1540年)以降, 福江の領主宇久盛定と盛んに貿易をおこない, 福江には唐人町もつくられました」という説明があります。福江島の宇久盛定は倭寇の頭目・五峰(=峯)王直との間に通商の密約を結び、居城(江川城)対岸の高台に土地を与え、王直らを居住させました。唐人町が造られ、王直らが飲料水を得ていたという六角井が保存されています。王直らが航海の安全を祈るために建立した廟堂跡の明人堂や唐人橋など当時の様子を伝える建築物があります。種子島で鉄砲伝来のとき、王直はなぜ自ら「五峰」と名乗ったのでしょうか。1540年に王直が初めて値嘉の島(五島)に近づいたとき, 海上から見えた島が五つの峰のように見えました、そのときの印象が強く彼の記憶に残っていたのでしょう。密貿易商人であるから自分の本名を明かすわけにはいかないので、五峰と名乗ったとのことです。また、一般に鉄砲伝来は1543年といわれていますが, それ以前に伝わっていたのではないかという問に対しては、もちろん五島や平戸には既に伝わっており、王直は鉄砲の弾薬に不可欠な硝石が日本では産出できないこと、したがって日本への硝石輸出が莫大な利益をもたらすことを知っていました。それゆえ、財政難を抱えていた宇久盛久は貿易による利益をもたらす王直の来航を歓迎しました。鉄砲の伝来は王直にとって日本での大きな商機であり、双嶼港から例のポルトガル人を誘って種子島に赴いたのではないでしょうか。1543年の種子島への渡航は「漂着」ではなく、意図的な「来航」であったといえましょう。王直は硝石貿易でも莫大な利益を得ています。1542年、王直は平戸へ移りました。平戸松浦家第25代・松浦隆信(道可)は彼を優遇し、平戸の中心にある勝尾岳の東麓に土地を与えました。王直は、そこに唐風の大きな屋敷を建てました。現在この屋敷跡には碑があるだけですが、市内には五島の福江と同じような六角井が残っています。平戸時代の彼の手下は2000人余りで、数百隻の船団を指揮し、「徽王」と名乗っていました。これは彼が徽州人であったからと容易に推察できます。『史都平戸』には、「(王直)平戸に滞在すること十五年」とありますので、1557年に帰国するまで平戸に滞在していたことになります。 五島列島は王直にとって密貿易の基地であり、平戸は彼の屋敷であったといいます。王直は五島列島を拠点として硝石貿易を拡大していきました。王直は薩摩にも拠点を置いていたことが知られています。つまり、王直は日本にいるときは平戸を居住地と定めたうえで, 五島や薩摩の間を行ったり来たりしていました。王直は海外との密貿易の仲介をしたので、京や堺などの商人が多数訪問しました。また諸大名との交流もありました。『鉄炮記』に「儒生五峯」という記述がありますから,王直は単なる密貿易商ではなく、それなりの教養を備えた人物であったと思われます。彼の故郷徽州は商業の発展とともに文化も栄えた土地で、多くの教養人が生まれています。1550年6月にポルトガル船が平戸に来航し、松浦氏の歓迎を受けます。これが我が国の「南蛮貿易」の始まりとなりましたが、これを手引きしたのは王直でした。すでに双嶼時代にポルトガル密貿易商人とのネットワークを築いていた彼にとっては、たやすいことだったといえます。鉄砲の伝来とポルトガル人の来航が日本の歴史を変える大きな意義をもつことは改めてここで書くまでもないでしょう。この二つの大きな出来事の裏には海商王直の活躍があったのです。
(「王直と倭寇」参照)

『琉球伝・武備誌』エピソード79

<王直の生い立ち>
王直(不詳~1559年)については、比較的多くの文献が残っていますが、断片的な記述が多く、年代的にみて明らかに矛盾すると思われる記述も少なくないので整理する必要があります。王直は後期倭寇の頭目のなかで一番よく知られた人物です。当時の『擒獲王直記』という記録には、彼は徽州人で、歙県(現・安徽省黄山市)の生まれですが、生年は定かではありません。父親に関する情報もほとんど無く、母親は汪氏といわれており、文献によっては「汪直」と表記されているのは母方の姓に由来するのでしょう。幼い時に家が没落し、任侠の精神に富み、勇気があって知略に優れ、施しをよくし、多くの人から尊敬されました。同じような不良連中と徒党を組み、やがて彼らとともに海賊になったということが記されています。また彼には出生にまつわるこんなエピソードがあります。ある日、王直が、自分が生まれた時に何か変わったことはなかったか?と母に尋ねたところ、母は「お前を生むとき大きな星がお腹に入る夢を見たよ。その日は大雪で草木も皆凍るほどの寒さだったね」と教えてくれました。これを聞いた王直はたいそう喜びました。その星は「孤子星」に違いなくその夢こそ自分が武の道で名を成す予兆に他ならないと考えたのでした。「孤子星」とは中国の星座の一つで、弓に矢をつがえた形に見えることから武事と関連付けられることが多く、また、「草木皆凍」も武事を象徴する現象と考えられていました。彼は当初塩商人(塩賊)でしたが、商売に失敗し、同郷の徐惟学と遊民に転じ、若い頃から何人かの仲間と海外に出かけていました。やがて同郷の許棟の配下となりました。少なくとも1530年代の何年間かは六横島を本拠地としていたと思われます。
(「中国任侠列伝」「王直と倭寇」参照)

『琉球伝・武備誌』エピソード78

<鉄砲の日本伝来>
日本の戦史を一変させてしまった鉄砲の伝来にも王直は深く関わっていました。
「1543年、 ポルトガル人が種子島に漂着し、鉄砲を伝えた」というのが、これまでの学校の教科書の記述でした。しかし、これには異説があり、最近では「1543年頃に」とか「伝えたといわれている」というような断定を避けた表現も散見されるようになりました。異説の一つを紹介します。従来、鉄砲伝来については、1606年(慶長11年)に薩摩の禅僧・南浦文之が書いた『鉄炮記』がよく知られています。それによると、「1543年9月23日(旧暦8月25日)に100人余りの乗船した大型船が種子島に来着した(「漂着」ではない)。その服装も初めて見るものばかりで、言葉も通じない。乗船者のなかに中国人の儒生「五峯」という姓不詳の人物が砂上において筆談し、乗船者が南蛮の商人であることが判明した。」この書は、鉄砲伝来から63年後に書かれたものであり、すべての記述が正しいとは言えません。これに対して、ポルトガル人の「漂着」と「鉄砲伝来」の時期は異なっているとの説があります。ポルトガルに残る記録からポルトガル人が漂着したのは1542年で、彼らが鉄砲を伝えたのは翌1543年であるとしています。ポルトガルの資料などによりますと、「アントニオ・ダ・モッタとフランシスコ・ゼイモト、アントニオ・ベイショット(ペイショットとも)の三人のポルトガル人は、タイのポルトガル商館長(一説には船長)フレイタスの船から脱走して、中国船(ジャンク)を入手して六横島の双嶼港を目指したが、暴風雨に遇い、数日後種子島まで流された(漂着)。島の人々に助けられて、船を修理して双嶼に辿りついたらしい。翌1543年8月にダ・モッタとゼイモトの二人が六横島の有力な倭寇の王直のジャンクに乗って鉄砲を伝えた。二人のポルトガル人の名前は、『鉄炮記』の音写では「佗孟太」と「牟良叔舎」となっている。「佗孟太」はダ・モッタであり、「牟良叔舎」はゼイモトのファースト・ネームのフランシスコに相等する。彼らは双嶼で調達したと考えられる鉄砲2挺を銀200両(現在の金額で約400万円)で島主の種子島時尭に売った。」と伝えられています。ところで、1542年に三人のポルトガル人が種子島に漂着したという点についても、疑問が無い訳ではありません。ポルトガルのモルッカ総督アントーニオ・ガルバンの『諸国新旧発見記』(1563年)には、三人が暴風雨に遇った数日後、「東の方32度の位置に一つの島を見た」といわれています。これが北緯32度を指すとすれば、種子島よりかなり北になり、鹿児島県阿久根市あたりを指します。また、 既に1543年以前に日本には鉄砲が伝わっていたという説もあります。『史都平戸』には、次のような記述があります。『平戸藩史考』に、1543年(天文12)平戸松浦隆信が相神浦松浦親との戦いに鉄砲を用いた如き記事がありますから、あるいは明人王直を平戸に優遇したとき既に彼の手を経て平戸には若干の鉄砲が伝わっていたのではないかと考えられます。種子島に伝わった鉄砲はわずか2挺であり、これが同じ年にはるかに離れた地で実戦に用いられることはあり得ません。すなわち、『平戸藩史考』の記述に従えば、種子島以前に鉄砲は日本に伝わっていたと考えられます。
(「王直と倭寇」参照)

『琉球伝・武備誌』エピソード77

<倭寇の戦法>
「倭寇の軍はしずしずと 千変万化の陣がまえ ほら貝の音に胡蝶とび 一列に並び長蛇走る 軍扇さっと打ち振れば 全軍たちまち影も無く また忽然と現われて あたり一面の刀の花 さらに贋物も加わって 禍に乗じて中華を騒がす」
倭寇の戦法として恐れられた有名な長蛇の陣と胡蝶の陣を詠んだものです。倭寇は上陸すると一列の縦隊で進み、官軍に出会うと散開して伏せ、指揮官が扇を用いて号令を掛け、伏兵が四方から刀を振るって立ち上がる様が蝶が舞うようであったといいます。また一列の先頭と後尾に最強の者を置き、頭を撃てば尾の方が攻撃し、尾を打てば頭の方が反撃する方法が長蛇の陣です。一隊の構成は30人ぐらいで、各隊はほら貝の合図で連絡しながら行動し、略奪の後では必ず建物に火をかけて去ったといいます。この戦法に対して非常に効果的な対策を立案し、実戦部隊を訓練・指揮したのが兪大猷や戚継光といった明軍の名将でした。
(「倭寇 海の歴史」参照)

『琉球伝・武備誌』エピソード76

<倭寇の特質>
明の馮夢竜の編纂した『三言二拍』という小説集の中に倭寇のことを扱った『楊八老越国奇逢』が収められています。内容は、陜西省の商人だった楊八老が福建省で倭寇に捕らえられ、倭寇の配下に加えられて日本に行き、19年間滞在して、紹興で倭寇の一員として明の官兵に捕まり、やがて二人の夫人と二人の息子とに合うことが出来、めでたしめでたしというものです。彼が倭寇を初めて見た時の詩です。
「舟も車もひしめき合い 男も女もおろおろそわそわ 肝をつぶして逃げまどい 口をそろえて言うことに 倭寇のなんと凶暴で それにひきかえ官軍の 頼りにならぬ悔しさよ 足手まといの年寄りや 女房子供を振り捨てて 何より我が身が大切と 命からがら逃げて行く 貧乏人も金持ちも いざとなったら同じこと 都会だろうと山奥だろうと 逃げられる所に逃げるまで さても古人はよく言った 『乱離の人となるよりは 太平の犬の方がよい』」
 倭寇については次のようにも書いてあります。倭寇は中国人を見つけたからといって、誰も彼も皆殺しにするわけではありません。女を捕虜にすれば欲するままに姦淫し、散々弄んだ末には、殺さずに逃がしてやる。中には情を解する倭奴もいて、人並みに贈り物をすることさえあります。男の場合は、年寄り子供だけを殺し、強そうな男だったら、無理矢理に捕まえて奴僕として使い、髪を剃り、漆を塗りたくって倭奴に変装させ、刀や槍を与えて合戦の法を仕込み、いざ合戦という時には、これを陣頭に押し立てて進みます。官軍の方ではただ首を一つ取りさえすれば褒美が貰えるので、瘡っ禿げでもあれば普通の良民だろうと何だろうと、その首を切って手柄にしようとします。まして戦場で捕まえたのであれば本物だとうと贋物だろうと決して許されることはありません。それ故、頭を剃られた贋倭奴達は、どのみち助からないなら、倭寇に頼った方がましだという考えになり、倭奴同様に凶暴な力を奮います。本物の倭奴は贋物を陣頭に押し立てて突進させ、自分らはその後から進むので、官軍はしばしばその計略にかかりやられてしまいました。これが中国人から見た一般の倭寇の姿でした。
(「倭寇 海の歴史」参照)

『琉球伝・武備誌』エピソード75

<沙民>
長大な長江は大量の土砂を運び、「沙」と呼ばれる陸地をその河口域に出現させてきました。現在巨大な崇明島が形成されいくつかの「沙」 が残るのみとなっていますが、この水域の「沙」は長い歴史の中で消長を繰り返しました。特に明代中期から清初にかけて数十もの「沙」が出現・消滅を繰り返し、唐代から置かれていた崇明の県城も明代には水没のために四度にわたって移転を余儀なくされるほど(特に嘉靖年間から万暦年間までの約半世紀に三度も移転しています)激しい変化を見せていました。このように消長の激しい崇明付近の「沙」に住む人々(ここでは一括して「沙民」と呼ぶ)は流動性のある、不安定な存在にならざるを得なかったのです。万暦新修『崇明県志』巻一・風俗には「崇人は自ら耕稼漁樵するより外、別に他業無し。故に游民多く、或は打行(拳法)を習い、或は賭博を攻め、盗みを為し姦を行う。大率みな此の類なり」とあります。また『明実録』弘治十八年(1505年)二月丙寅の巡撫応天等府都御史・魏紳らの上奏には崇明の住民について「海洋の民、習性は貪悍.闘を好み生を軽んじ、中間に盗を為すの徒多く、起ちて利を争う」と記し、彼らの中に盗賊の類となる者が多く存在していたことを指摘しています。塩分を多く含んで農耕には適さなかったとされる「沙」においては漁業と共に製塩が主要な産業であったようで、必然的に彼らは海上に生活の基盤を置き操船技術に優れ、「風濤出没、長技を独り壇にす。此れ其の民、これを善に駆りたてるは則ち難にして、これを悪に縦てば則ち姓然るのみ」と実際に近隣に住み『籌海図編』『江南経略』の著者であり倭寇対策にもあたった鄭若曽も評しています。この点において「沙民」は先述の「竈戸」とよく似たこうした特性を持っていたと言えます。実際にこうした「沙」を拠点とした反乱活動が「嘉靖大倭寇」以前の時代にしばしば起こっていたことが地方誌などによって知られています。特に大規模であったのは「大倭寇」時代の直前とも言える嘉靖19年(1540年 )の「秦瑞・王良の乱」で、彼らは崇明付近の沙の一つである「南沙」を拠点に「魚を捕り塩を煮て奸を為す」(『太倉州志』)という活動をし「壮丁を蓄え巨艦を備え魚塩を載せ、近洋に泊して小舟を以て分載して入港し、州守以下に賄す」(『崇明県志』)といったように、官憲にも贈賄して海上活動の自由を得ていました。彼らは最終的に官軍によって討滅されましたが、泥地など沙の地形を利用した戦法により官軍を一時は破っており、また彼らが拠点とした南沙には少なくとも2000人の「男女」の住民が存在し、これが彼らの活動を支えていたと思われる節があるなど、沙と沙民に基盤を持つ反乱活動であったことは、「大倭寇」における沙の情勢と絡めて注目されるところです。その後、嘉靖32年(1553年)4 月に「嘉靖大倭寇」が発生しますが、その先陣を切り、王直とも深く関わる人物であったと推測される賊首・蕭顕が、秦晒・王良と同じくこの南沙に二度にわたり拠点を構えていることは注目されます。『江南経略』などの記事によれば、蕭顕らは500余の勢力で南沙に上陸し、ここに官軍が蓄えていたものと思われる「積粟」を手に入れ、沙の地形を利用して伏兵を駆使するなど激しく官軍に抵抗しました。さらには官軍の動向を偵知した蕭顕が各沙の新賊を招集したと『江南経略』は伝えていて、南沙以外の「沙」に彼に呼応しうる勢力がいたことを示唆しています。また7月に南沙に入って官軍に包囲された蕭顕はその年の暮れまで約5ヶ月間もここに立てこもり続けていて、彼らを陰から強く支える南沙の住民の存在があったことを推測させます。因みに現代中国でも戸籍の無い子ども達が1300万人もおり、学校にも病院にも行けない「ブラック・チルドレン」は崇明島だけで200名以上確認されているそうです。歴史の悲哀は今も続いています。
(「16世紀「嘉靖大倭寇」を構成する諸勢力について」参照)

『琉球伝・武備誌』エピソード74

<竈戸>
竈戸は沿海にあって製塩を生業とする住民ですが、同時に燃料となる柴を刈り、漁をするために海上で活動する人々でもありました。彼らはそうした生活のために密貿易とも深く関わり、かつ「倭寇」にも深く関与していたことが史料中から浮かび上がってきます。『籌海図編』巻十一、叙寇原にこうした「竈戸」と「倭寇」の関わりについて重要な意見が載せられています。厳しい海禁政策下にあって沿海の竈戸が「採弁」を理由に大船を私造し下海していました。これが初めは漁業、やがて密貿易船に物資などを売る行為である「接済」に及び、甚だしくは、自ら「通番」=密貿易をするに至ったというプロセスを示していいます。十数年来に密貿易活動が活発化したため、巡撫の朱紈による双嶼掃討が行われて海上活動の禁捕に務めましたが、「大家の竈戸」が海上活動の制限が彼らの生活の妨げになるだけでなく製塩に支障をきたして国課に損失をもたらすと抗議し、これに加えて官憲の一部も「竈戸」らの主張の肩を持ったため海禁は結局破られてしまったというのです。その結果が「往年の倭寇」であり、蘇州・松江を襲った「倭寇」の半ばはこれに「脅従」した、もしくは「捕獲」された、あるいは彼らの奪ってきた金品を隠し持っていた者たちであり、それらの多くが「竈戸」であったというのです。
(「16世紀「嘉靖大倭寇」を構成する諸勢力について」参照)

『琉球伝・武備誌』エピソード73

古代から、塩の専売は国家や権力者の財源確保の為の常套手段でした。日本でも専売公社があったことを思い出します。塩の生産者等にとっては、劣悪な労働条件や塩分を含む土地では穀物や野菜も収穫できないという悪条件が重なり自暴自棄になるのも止むを得ません。朝廷や官憲への反抗は彼らにとってむしろ称賛される行為でした。前述していた『江湖の世界』の住人達です。
<塩徒>
塩徒とは塩の密売商人の集団であり、その無頼結社的性格からしばしば反乱活動の中核となることがありました。地方誌などをみれば「倭寇」が到来する以前から江南地方の各所に塩徒の巣があったことが知られています。『嘉靖東南平倭通録』嘉靖33年(1554年)の記事に、「初め通州河の役、賊兵僅かに百余人、塩徒及び脅従者千余人」とあり、江北の通州河の戦闘においてわずか百余人の「賊」に「塩徒および脅従」 がそれよりはるかに多い千余人で従うという構成であった。」としています。「脅従」 は倭寇などが現地の住民を捕らえて、強制的に協力させる意味合いで使われる表現ですが、実態としては自ら進んで参加しているケースも少なくなかったと思われます。ここでの塩徒と脅従者の割合は不明ですが少なからぬ塩徒が「倭寇」に合流していたことは事実でしょう。この『嘉靖東南平倭通録』の同年3月の記事を見るとこの海門・如皐・通州などを寇掠したこの「倭寇」集団は「各塩場を焚した」とあり、塩徒反乱の側面もうかがわせています。また、あくまで傍証ですが、『簿海図編』などで「三丈浦の賊」などと表現され「倭寇」の拠点の一つとされる三丈浦について、『江南経略』には巻三・三丈浦険要図説に詳しく図が載っていて、「通州と対境す。私塩を販する者の江を絶ちて往来す」との説明がついており、ここが塩徒らの往来する場所であったことを伝えています。この他にも長江河口域の南岸部を中心に「倭寇」 の拠点となった場所と塩徒の活動地は重なりあうところが多いのです。
(「16世紀「嘉靖大倭寇」を構成する諸勢力について」参照)

『琉球伝・武備誌』エピソード72

<後期倭寇>
16世紀になると、 明朝は北方での戦いに経費がかさみ、 海禁政策は次第に緩み、 民間商人による密貿易が盛んになってきます。彼らは、あるときは地元の役人などの有力者とひそかに結び、海外交易に出かけていきます。生命と積み荷の安全のため海賊と結託し、やがては商人自身が武装するようになっていきます。一方, 日本の勘合貿易の中断期(1411~1433)には倭寇の活動が活発化しますが、室町幕府も西日本の海上勢力を統制する力を失っていきます。こうして中国人の密輸業者と九州の海上勢力が一体化して、東シナ海域で密貿易に従事し、ときには略奪・海賊行為も辞さなかったのです。これが後期倭寇です。当時はいわゆる大航海時代で、ヨーロッパ人がアジアに進出し、中国や日本にまで手を伸ばそうとしていました。彼らの一部もまた倭寇と組んで活動しました。16世紀半ばは後期倭寇の活動の最盛期でした。
鄭若曽の編纂した『籌海図編』(1561年刊)は倭寇対策および日本研究の集大成といえる書籍であり、後世の倭寇研究・中世日本研究に欠かせない根本資料です。他に対象地域を絞った『江南経略』もあり、こちらも詳細を極めた内容となっています。『籌海図編』にも、「倭寇の患は、福建に始まり、内地の奸民が、これを誘引した」「通倭の者は、漳州・泉州の仕事にあぶれた者が多い」と記されています。この時代に倭寇に参加した集団のいくつかをこの後紹介します。
(「王直と倭寇」参照)

『琉球伝・武備誌』エピソード71

<密貿易の拠点・六横島>
1492年にヴァスコ・ダ・ガマが喜望峰を経由してインド西岸のカリカッタに到着しました。これを契機に、ポルトガルはアジア進出を決め、1510年にはゴアを占領、さらに東に進み1511年にはマラッカを占領します。マラッカはインド洋海域と東南アジア海域を結ぶ東西貿易の中継地・香料貿易の中継地であり、当然中国南部の船も出入りしていました。ここを拠点としたポルトガルは、香料貿易の独占をはかるとともに、1517年に中国への進出を試みましたが、明は正式の通交を拒絶したので、当面は手の打ちようがありませんでした。しかし、その裏では、ひそかに中国に入り、交易を行ったポルトガル商人もいました。小さな地図では見つかりませんが、寧波から外海への出口に大小無数の島からなる舟山諸島があります。ちなみに、1339の島からなり、その一つが六横島です。1525年に厦門(アモイ)のお尋ね者で海賊の親分である鄧獠がマラッカやパタニに渡り、ポルトガル人らを六横島に招き寄せました。1526年には六横島の双嶼を密貿易港として開き、ポルトガル商人との密貿易を始めます。やがて島にはポルトガル人が定住して集落をつくるようになり、彼らの家が約1000軒も建てられ、医院やカトリック教会二つ、それに市庁舎まで建築されました。当時の島の人口は3000人余りでしたが、そのうちポルトガル人は約1200名でした。双嶼港には日本人・ポルトガル人・東南アジア人が集まり、「東シナ海の一大貿易センター」に成長していきます。1540年頃の双嶼でのポルトガル人の商取引は300万両超でした。鄧獠の下には、福州人の李光頭、徽州人の許四兄弟(松・棟・楠・梓)のほかに淅江、福建、広東の大海賊の首領がいました。彼らの活動範囲は東南アジアから日本にわたり、許兄弟が日本の海賊と通じていたようです。しかし、 1532年に鄧獠が官軍に捕まり、1538年には許棟と李が捕まり、許梓はタイに逃げました。その後は、下っ端だった王直が双嶼の大親分になったと伝えられています。いよいよ海賊王・王直の登場です!中国の軍事史、武術史に興味のある人であればこの地図を見ただけで興奮します!
(「王直と倭寇」参照)

『琉球伝・武備誌』エピソード70

<寧波の乱>
1523年、 寧波で日本の朝貢船同士の騒動が発生します。室町幕府はすでに弱体化し、自ら遣明船を派遣するだけの経済力も失っており、幕府に変わって大名や有力商人が朝貢船を派遣していました。4月27日、博多から出発した西国大名・大内義興の後援する遣明船3隻(乗員300余人)が寧波に入港しました。正使は謙道宗設でした。少し遅れて堺から守護大名・細川高国の後援する遣明船1隻(乗員100余人)が到着しました。この船の正使は鸞岡瑞佐で、福使は宋素卿でした。後からやってきた細川船の宋素卿が寧波市舶使の太監・頼恩に賄賂をおくり、細川船の扱いを優遇させるように取り計らいました。そこで大内船の謙道が怒り、細川船に火をつけました。これに対し、明官憲は細川側に武器を与えて援助しました。謙道は鸞岡を殺害しました。宋は逃げましたが、彼が寧波人でかつて事件を起こし日本へ逃亡したことが判明し、明官憲に捕えられました(のち獄死)。この一件で、明朝は、両方の遣明船を追い返すとともに、日本からの入貢を禁止し、貿易を統制する寧波の市舶司も廃止されました。こうなると、日本との密貿易を謀る者が出てくるのは容易に想像出来るでしょう。
(「王直と倭寇」参照)

『琉球伝・武備誌』エピソード69

<徽州商人>
明朝にとって大きな悩みの種は、 北方のモンゴル人と南方の倭寇でした。「北虜南倭」と呼ばれています。元朝の滅亡(1368年)によってモンゴル勢力が滅びたわけではなく、彼らは北方周辺に後退しただけで依然大きな力を維持していました。彼らはしばしば華北に侵入して朝廷を悩ませました。時代は少し飛びますが、1550年にはアルタンが率いるモンゴル軍が8日間にわたって北京を包囲し、周辺部で略奪放火を欲しいままにするという事件が起きています(庚戌の変)。一方、15世紀に朝鮮半島や中国北部の沿海を荒らしまわった倭寇は16世紀になると、南下して江南で活動を始めました。明朝は北に「北虜」(モンゴル勢力)、南に「南倭」(倭寇勢力)という問題を同時に抱え込んだのです。明は、北方防備のため長城を修築・整備して九辺鎮(九つの軍管区)を置き、大量の軍兵を配備しました。この軍隊を養うための食糧調達は大問題でした。永楽帝の時代に首都を南京から北京に遷す(1421年)と共に、物資を運ぶために大運河を北京にまで伸ばしました。当初、政府は民間人に軍の食糧の運搬を請け負わせ、その見返りに塩の専売権を与えました(開中法)。当時、塩は高価な貴重品でした。その役目を担ったのは比較的北辺に近い山西や陝西の商人でした。しかし、大量の食糧を遠くまで運ぶのは大変な労役で商人たちは嫌がりました。そこで、1492年には商人は銀を国庫に納め、塩の販売権を得るという方法に開中法が改められました。商人から収められた銀と農民から土地税として収められた銀を国庫に納め、政府はこの銀を九辺鎮に運び、現地での軍糧購入資金に充てるようになったのです。この様に、明では15世紀の後半から税や徭役の銀収化が進みます。やがて、国内中の銀が不足するという事態に陥るのです。この開中法の改革によって、塩の生産地に近い地域の商人が塩の販売に新規参入することが可能になりました。この機会をのがさなかったのが徽州商人でした。徽州は安徽省にあり、内陸部ではありますが、河川と運河で近海ともつながっています。塩の販売で利益を得た徽州商人は事業を拡大し、薬剤・綿製品・陶磁器・木材の取引などに乗り出し、大量の銀を稼ぎました。徽州が栄えるに伴って江南では至る所に市鎮(市場町)が発展しました。南京・潮州・杭州では高級絹織物業が発達し、農村の副業(家内手工業)として綿織物が作られました。潮州商人は, 河川・運河などの水易ルートを活用し、長江下流の南京・揚州・杭州や華南の広州、華中の漢口、首都北京、華北の臨清などに商業拠点を広げていきました。この頃、日本からの遣明船は寧波に出入りしていました。寧波は日本の勘合貿易船に許されていた唯一の交易港でした。遣明船は主として生糸を購入し銀で決済しました。1530年代になると、日本では朝鮮から伝わった灰吹法の導入によって銀の産出量が急増します。この寧波は徽州からは川と運河を利用すると簡単に行くことが出来ます。国内長距離交易に従事する徽州商人にとっては、銀が手に入る日本との交易が魅力的に映ったのではないでしょうか。やがて、「寧波の乱」をきっかけに、徽州商人のなかにも江南デルタの生糸・絹・綿布・陶磁器(特に景徳鎮は有名)などの密貿易に手を染める者が現われます。
(「王直と倭寇」参照)

『琉球伝・武備誌』エピソード68

<鄭和の南海大遠征>
鄭和(1371~1433年)は、明代の武将。本姓は馬、初名は三保です。宦官の最高位である太監だったことから、中国では三保太監あるいは三宝太監の通称で知られています。馬三保、すなわち後の鄭和は、1371年に馬哈只の子として雲南省昆陽鎮(現・雲南省昆明市晋寧区)でムスリム(イスラム教徒)として生まれました。姓の「馬」は預言者ムハンマドの子孫であることを示し、名の「哈只(ハッジ)」はイスラム教の聖地メッカへの巡礼者に与えられる尊称ハッジに由来します。父および先祖は、チンギス・ハーンの中央アジア遠征のときモンゴルに帰順し、元の世祖クビライのとき雲南の開発に尽力した、色目人の政治家サイイド・アジャッル(賽典赤 Sayyid Adschall Schams ad-Din Umar (1211–1279))につながります。馬三保は、元王朝の大臣として著名なサイイド・アジャッルから数えて6代目の直系の子孫に当たります。鄭和がイスラム教徒の出身だったことは、のちに永楽帝が鄭和を航海の長として使おうと考えた理由の一つだと考えられます。鄭和が生まれた1371年には、雲南はいまだ元王朝系の梁王国の支配下に置かれていたものの、すでに中国本土は朱元璋の建てた明の支配下にあり、元の勢力は雲南など数か所で余喘を保っているのみとなっていました。1381年、鄭和10歳の時に明は雲南攻略の軍を起こし、翌1382年に雲南は滅亡しました。鄭和は捕らえられて去勢され、1383年ごろに宦官として当時燕王だった朱棣(のちの永楽帝)に献上されました。朱元璋の死後、1399年から1402年にかけての靖難の変において馬三保は功績を挙げ、帝位を奪取した永楽帝より宦官の最高職である太監に任じられました。さらに1404年には鄭の姓を下賜され、以後彼は鄭和と名乗るようになりました。宋代から元代にかけて、中国商人たちは東南アジア、南アジアの諸都市で活発な交易を行っていましたが、明を建国した洪武帝は1371年に「海禁令」を出し、外洋船の建造と民間船舶による外国との通商を禁じました。この法は明王朝一代を通じて守られ、これは永楽帝の代においても例外ではなかったのです。一方で永楽帝は洪武帝時代の消極的な対外政策を改め、周辺諸国への積極的な使節の派遣を行っており、この一環として大船団を南海諸国に派遣し、朝貢関係の樹立と示威を行う計画が浮上しました。こうして1405年6月、鄭和は南海船団の指揮をとることを命じられました。鄭和の指揮した船団の中で、最大の船は宝船と呼ばれ、『明史』によれば長さ44丈(約137m)、幅18丈(約56m)、重量8000t、マスト9本であり、小さく見積もれば、長さは約61.2m、重量1170t、マスト6本という巨艦とも言われます。出土品や現代の検証から、全長50メートル前後という説もあります。またこのほか、給水艦や食糧艦、輸送艦も艦隊に加わっていたと推測されています。艦隊の参加人員はどの航海においてもほぼ27000人前後となっており、正使、副使などの使節団を中心として、航海士や操舵手、水夫などの乗組員、指揮官を筆頭とした兵員、事務官や通訳などの実務官僚、医官などさまざまな職種からなっていました。
(ウィキペディア参照)

『琉球伝・武備誌』エピソード67

<前期倭寇の沈静化>
応永の外寇と望海堝での敗北以後、倭寇は沈静化したといわれています。それは朝鮮のアメ(羈縻(きび)政策=馬や牛をつなぎ止めておくこと、周辺の異民族に対してとった懐柔策)とムチ(討伐)の政策が功を奏したためとされています。たとえば、世宗は1438年に、対馬から海賊を出さないことを条件に「分引」の発行権を島主・宗氏に与えました。分引とは、宗氏が身元を保証する書状で、これを持参する者は「良民」とみなして、明との貿易を許すという一種の渡航証明書でした。沈静化といっても、倭寇の襲撃が全く無くなったわけではありません。1421年には中国へ向かう琉球の朝貢船が倭寇の船20隻に襲われ、武器がなかったため皆殺しになるという事件が発生したことが記録されています。1443年に明の使者が来日し、足利義教に対し「賊船」に捉えられ、日本各地に散在している明人をすべて中国に帰すように要求しました。15世紀の後半になると、倭寇のなかの倭人の割合は次第に小さくなっていきます。その一例をみると、『李朝実録』の1482年の条には、「済州人民沿海諸邑を流寓す。既に附着無く、又禁防無くして自由に出入りす。或は倭人の言語・衣服を倣い、海島を往来して潜かに剽竊を行う」と記されています。済州島の民衆が倭寇に加わったのは、もっと前のことだと思われます。この時期に出没し始めた「水賊」は倭人なのか、朝鮮人なのか。朝鮮官憲は、三浦の恒居倭人を疑っていました。そのことが三浦倭人の怒りを買いました。1510年4月4日、薺浦・釜山浦の倭人が対馬の代官同盛親の指揮する援兵を得て大規模な暴動を起こしますが、失敗に終わりました(三浦の乱)。この事件をめぐって対馬と朝鮮の関係は断絶に至りました。この頃から、前期倭寇の活動に関する情報は現存する資料のなかから消えていきました。しかし、やがてもっと大きな倭寇の波が東シナ海に帰って来るのです。
(「王直と倭寇」参照)

『琉球伝・武備誌』エピソード66

<李氏朝鮮と倭寇>
1375年頃、高麗は藤経光(征西将軍・懐良親王と結んでいた水将)という名の倭寇の頭領をだまし討ちにしようとしましたが、この計画が漏れてしまいました。これを境に倭寇は女・子どもまで皆殺しにするようになったと『高麗史』は伝えています。1380年代になると高麗の軍事力が整備され、倭寇はしばしば大敗を喫するようになります。この倭寇との戦いで功績をあげ、名声を高め, 朝廷内での重みを増した武将が李成桂でした。当時、高麗では北元と組んで明を攻撃する計画が生まれました。李は軍を率いて鴨緑江まで進みましたが、高麗軍には戦意がないことを悟り、引き返して首都に向かい、高麗の恭王を廃し、王子を立て自ら政権を握りました。1392年、部下に推されるかたちで王位につき(太祖)、 国号を朝鮮と改めました。太祖も明の洪武帝と同じように室町幕府や九州探題に倭寇の鎮圧を求めました。1404年7月、足利義満は使節を朝鮮に派遣し、両国の善隣関係を樹立しました。以後1590年まで両国の使節が行き来していました。同じ年に、明の永楽帝が朝鮮国王を冊封しました。これによって東アジア3国間に安定した国際関係が実現しました。この関係は16世紀半ばまで続きます。1405~31年には、永楽帝に仕える宦官・鄭和によって7回にわたる南海大遠征が行われ、東南アジア、インド沿岸、ペルシア湾岸、アフリカ東岸、インド洋沿岸の10数か国が明と冊封朝貢関係を結びました。しかし、東シナ海では倭寇の活動が活発に続きます。1418年に飢饉が対馬を襲いました。食糧に困った島民が朝鮮の忠清沿岸を襲いました。1419年、朝鮮王朝の上王太宗は倭寇の根城となっている対馬の征討を決意し、第4代王の世宗が軍船200隻・1万7千の兵を派遣して侵攻させました。対馬の宗貞盛はなんとかこれを撃退しました(日本では「応永の外寇」と呼び、 朝鮮では「己亥東征」と呼ぶ)。しかし、これをきっかけに日朝両国間の関係が一時険悪になりました。翌1420年には朝鮮使節・宗希環が対馬・博多を経由して京都を訪れ、朝鮮への報復攻撃を考えていた4代将軍足利義持に対馬攻撃について釈明し、講和が成立しました。同じ1419年には、中国で遼東の望海堝を襲った倭寇が明軍によって壊滅的な打撃を与えられるという出来事がありました。15世紀半ばの倭寇は、「倭人は一、 二に過ぎずして、本国の民、仮に倭服を着て党を成して乱を作る」と『世宗実録』(1446年の条)は述べています。その大半が朱元璋の仇敵であった方国珍や張士誠の残党達でした。倭人は、対馬・松浦・天草・肥後・薩摩などから出撃していました。
(「王直と倭寇」参照)

『琉球伝・武備誌』エピソード65

<明朝初期の倭寇>
元末明初の中国は政治的混乱期にありました。洪武元年(1368)年1月、明朝(国号は「大明」)を開き南京に都を移した朱元璋(洪武帝)の大きな課題の一つは国内の反明勢力が北方へ逃れたモンゴル人(北元)や倭寇と結びつくのを防ぐことでした。当時、明州(1381年に寧波と改名)・紹興・杭州・松江・通州・泰州を根拠地していた張士誠(1367年没)の残党や、温州・台州などを根拠地としていた方国珍(1374年没)とその一味の反明勢力は海賊として活躍しており、このままではすでに福建沿海部にまで侵出している倭寇と中国海賊が結託するのは時間の問題でした。明は沿岸の民衆が海上勢力と連携することを警戒しました。洪武帝は日本に対して朝貢を求めると同時に倭寇の禁圧を要請する使を派遣しています。洪武4年(1371年)には海禁令を発しています。「海禁」とは「下海通蕃の禁」の略です。明・清代に、民間の海外渡航・海外貿易などに制限を加えた政策です。具体的には、大都督府(軍事上の最高機関)に命じ、沿海の軍衛に海外との交易を禁じるというものでした。もちろん、倭寇や外国勢力の襲撃に備えて沿海の防備を強化し、住民を守ることが第一でした。洪武7年(1374年)には泉州・明州・広州の市舶司を閉鎖し民間による交易や往来を禁止しました。交易は朝貢貿易のみを認めることとし、来貢してくる国を制限し、勘合分冊を与え、この勘合符を所持する朝貢船のみを受け入れることとなりました。洪武帝時代には次々と制限が厳しくなり、洪武30年(1397年)の「大明律」では, 違法海外渡航を防止するために帆柱が2本以上の大型船の建造を禁止し、輸出禁止品を積載して外国に出掛けて交易することや海賊と結託することを禁じました。福建人が多く倭寇に身を投じた理由は、福建は山地が多く、米を産出しませんので、温州米(淅江)や湖州米(広東)を船で輸出する他なく、その代価は、船材となる杉材や松材と造船の技術くらいのもので、大部分は、中継貿易に頼っていました。海岸線が湾曲に富み、泉州が東半球最大の貿易港だったことを考えても、海禁令を守れという方が無理なのです。
(「王直と倭寇」参照)

『琉球伝・武備誌』エピソード64

<倭寇の中国への侵出、琉球王国>
勢力を拡大した倭寇は、1350年以降中国へも積極的に侵出するようになりました。それまでは主に壱岐・対馬を拠点に朝鮮半島南部を侵略していましたが、1358年から1363年にかけて倭寇が山東に現われ、毎年のように沿海部を襲うようになったと『元史』は伝えています。黄海沿岸から次第に南下し、1370年には福建にまで及んでいます。このとき、明軍は倭寇船13艘・300余名を捕獲しています。この時期の中国では, モンゴルの内部抗争から元が衰退し、1351年には紅巾の乱が起きており、倭寇の侵出を防ぐ余裕はありませんでした。当時の状況について、もう少し視野を広げると、14世紀はユーラシア大陸に自然災害が相次いだ世紀でした。1310年代から1380年代までの約70年間、 ユーラシア大陸全体に異常気象・天災・飢饉・地震などが続き、かつては広大な版図を誇ったモンゴルはその影響をまともに受けるはめに陥りました。元は天災・飢饉・疫病に見舞われ、政治の腐敗とインフレの結果、社会不安が増大し、各地で農民暴動が発生しました。紅巾の乱に乗じて天下を取ったのが、貧農出身の明太祖・朱元璋でした。
この頃、琉球では1326年から「三山時代」と呼ばれる時代が始まり、1429年の琉球王国(第一尚氏王朝)による統一まで、三つの王統が並立していました。一説には、「八幡信仰」で述べたように、琉球王朝の成立に倭寇勢力の影響があったとも言われています。三山の一つである、浦添を中心とする中山の察度が1372年に建国間もない明朝に初めて入貢しました。残りの二つの王統の南山の承察度は1380年に、北山の帕尼芝は1383年に相続いて入貢しました。明王朝はこれを歓迎しました。偽装朝貢使まで現われるに至って、1394年明が諸外国と往来を断ったあとも、琉球・暹羅(シャム)・真臘(カンボジア)だけは優遇しました。琉球王朝誕生後も緊密な関係が続き、中国の政権が清に変わったあとも、明治政府による1879年の「琉球処分」まで良好な関係が維持されました。
(「王直と倭寇」参照)

『琉球伝・武備誌』エピソード63

<朝鮮半島を襲う倭寇>
1350年2月に倭寇が高麗慶尚道の固城竹林・巨済を襲いました。『高麗史』は「倭寇の侵、此に始まる」と記述しています。朝鮮では後年、この年の干支をとって「庚寅以来の倭族」という成句ができたと言います。しかし、これまで述べたように、倭寇はその100年近く前から朝鮮半島を襲撃しています。なぜ、1350年なのかという疑問が残ります。この時期になってやっと高麗王朝が倭寇の目に余る行動に注意を払い始めたということでしょうか。高麗王朝(936~1392)の歴史を振り返ってみますと, それまでは国内に様々な問題を抱えており、都から遠く離れた南部の沿海部や島々での出来事に関心を向ける余裕がなかったのかもしれません。初期の倭寇が出没し始めた頃は数回にわたるモンゴルの侵攻(1231~1259年)を受けており、 1259年4月にモンゴルに降伏したあと、1270年には開京に遷都しましたが、既に見たように2度にわたる蒙古襲来のときには参戦を余儀なくされました。ともあれ、1350年以降, 倭寇の活動が急速に活発化したことは事実で高麗もこれを看過できなくなりました。この時期の日本は南北朝時代(1336~1392年)で国内が混乱しており、 中央政権が西方の周辺部にかまっている余裕はありませんでした。中央の統制が緩むなかで、倭寇も活動がしやすくなったのです。高麗は日本との外交交渉で問題解決をはかろうとして、1367年に使者を送り、室町幕府に倭寇の禁圧を求め、1370年代にも数回にわたって使者を派遣していますが、幕府は効果的な対処法を持ちませんでした。
(「王直と倭寇」参照)

『琉球伝・武備誌』エピソード62

<前期倭寇>
海のあるところでは世界のほとんどの地域で古くから海賊が活躍し、一部の海域では今日でも海賊の活動が続いています。東シナ海では、 遣唐使の時代以降海賊の活動が目立つようになったと言われています。一例をあげると、1019年にはロシア沿海州から女真族の海賊船50隻が対馬、壱岐、松浦などに侵入し、多くの人を殺害し、1000人を超える人を拉致するという事件が起きたとしています。倭寇の始まりはいつ頃なのかについては、様々な見方があります。これは「純粋の」海賊と倭寇との境界線があいまいなことにもよります。「寇」がどの程度の行為を指すかという解釈によって境界が異なってくるのです。また、倭寇に関する日本の資料は乏しく、中国や朝鮮の資料に頼らざるを得ないという事情もあります。14世紀なかばとする見解が多いのですが、限られた資料の中に13世紀前半とする説もあります。
前期倭寇の活動が本格化するのは蒙古襲来の後です。そのため前期倭寇の始まりを13世紀末や14世紀とする歴史学者が少なくありません。それまでは倭寇ではなく、単なる襲撃者・奪略者・海賊であったという見方です。文永の役(1274年)と弘安の役(1281年)と呼ばれる2度にわたる元の襲来の結果、鎌倉幕府の基盤は大きく揺らぎました。もはや、 朝廷や幕府の統制は遠く離れた地方にまで及ぶことができない状態になっていきました。二つの役で甚大な被害を被ったのは、戦の舞台となり元軍に土地を踏み荒らされた松浦党です。大きな人的被害を受けながらも、善戦奮闘したにもかかわらず、自分たちの領地は自分たちで守るのが当然であるとして、幕府の恩賞からは除外されました。これを不服とした松浦党は代表を鎌倉に送り、交渉に努めましたが、満足できるだけの恩賞は与えられませんでした。ここに至って、彼らは鎌倉幕府を見限り、自らの力を蓄えることに努めます。松浦党は鎌倉末期から室町時代にかけて一層結束を固めていくことになります。鎌倉末期には、48の分家があり、現在の佐賀県東部から長崎県五島列島までの沿岸部一体にその勢力が広がっていました。この松浦家については、 16世紀後半には南蛮貿易にかかわることになります。文永・弘安の役以降、松浦党だけでなく西日本沿岸の中小領主や海民たちが朝鮮半島や中国大陸沿岸に出没し、食糧や財貨の略奪、 さらに人民の拉致などの海賊行為を繰り返すようになったのです。
(「王直と倭寇」参照)

『琉球伝・武備誌』エピソード61

明代の武術史を語る上で、「倭寇」の存在は欠かすことが出来ません。まず「倭寇」という言葉について整理をする必要があります。
「倭寇」「倭人」「倭語」「倭服」などという場合の「倭」は、決して「日本」と等置できる語ではありません。民族的には朝鮮人であっても倭寇によって対馬などに連行され、ある期間をそこで暮らし、通交者として朝鮮に渡った人は、倭人とよばれています。海賊の標識とされた倭服・倭語はこの海域に生きる人々の共通のいでたち、共通の言語であって、「日本」の服装や言語とまったく同じではありませんでした。こうした人間集団のなかに、民族的な意味での日本人、朝鮮人、中国人がみずからを投じた(あるいは引きこまれた)とき、彼らが身におびる特徴は、半ば日本、半ば朝鮮、半ば中国といったあいまいな(マージナルな)ものとなります。こうした境界性をおびた人間類型を〈マージナル・マン〉と呼びます。彼らの活動が、国家的ないし民族的な境界領域を一体化させ〈国境をまたぐ地域〉を創りだします。こうして生成した〈地域〉は、国家や民族にとっては、 自己のアイデンティティをゆるがす存在として警戒の対象となります。その結果〈地域〉は血なまぐさい闘争の場となり、場合によっては死滅を余儀なくされるのです。倭寇の出没した時代には、国家や民族という概念はまだ発達していませんでした。自分が何国人であるか、何語を話しているのかというのは、一部の為政者とそれを取り囲む人々は別として、当時の一般の人々の意識にはなかったのです。したがって、国境という概念もありません。船に乗って航海していると、あるところで突然国境を越えて、別の国に入るという意識がないのです。この点に留意したうえで歴史を扱わなければ、誤解を生じる恐れがあります。
はたして倭寇は一口に「海賊」と言い切ってもかまわない集団だったのでしょうか?初期の倭寇は沿海部や島を襲い、食糧(米や麦)を奪い、人々を拉致する襲撃・略奪・海賊行為が主な目的であったのは事実です。しかし、時代が下るにつれて倭寇の性格が徐々に変化していきます。明朝の半ば頃から富と力を蓄えた中国の商人の中には、「海禁」を破って秘かに海外との密貿易に乗り出す者も生まれました。彼らは、海上や島陰など人目につかない場所で他国人と交易を行いましたが、平和裏に商談が成立しない場合には、時として暴力に訴えることもありました。その一部の者たちが後期倭寇の中心となっていきました。「寇と商は同じく是れ人なり。市通れば即ち寇変じて商となり, 市禁ずれば即ち転じて寇となる」という中国の諺があります。ここでいう寇は海賊であり、商は商人で、市は貿易の意味です。したがって、 倭寇を「武装海上商人」と見る研究者もいますし、「海上の集団的遊行民」と呼ぶ研究者もいます。
(「王直と倭寇」参照)

『琉球伝・武備誌』エピソード60

<倭寇と戦った少林僧>
明嘉靖年間、月空及び小山の両少林寺武僧はそれぞれ僧兵を率いて遠征し、当時中国東南部沿岸を荒らし回っていた倭寇と交戦したと記録にあります。『日知録』によると、月空は嘉靖年間に南京中軍都督萬表の命令により、30数名の僧徒を率いて軍を立て、松江一帯(上海)で倭寇と戦いました。この交戦の中で僧兵は手に鉄棍を持ち、勇敢に海盗を撃殺しましたが、月空の僧兵もこの戦いの中で全て(大部分?)戦死したと記載されています。その他、少林寺の『征戦立功簿』によると、小山も三度に渡って倭寇討伐に功があり、嘉靖皇帝より少林寺門前に一対の旗杆と石獅子を賜ったとされています。これ以外にも幾つかの文献で少林寺武僧が幾度かの戦いに参加した様子が記されています。
『雲間雑志』:「明嘉靖三十年(1551年)、海上より下沙鎮(坑州)に侵入してきた倭寇に対し、蔡可泉の召集により月空を首領とする少林寺の僧兵100数名を組織した」
『少林武僧志』: 「月空は垣然の高弟で、詔に応じて30数名の武僧を率いて福建泉州に赴き、倭寇を撃退し功を立てた。そして泉州に少林寺を建ててこの寺の方丈となった。」
『江南経略・僧兵大捷記』:「都督万鹿圓は200名の僧兵を昭慶寺にて養成した。天池、天真など40名の僧及び孤舟、月空などは皆抗州昭慶寺に属する。」
(「日本少林拳同盟会HP」参照)

『琉球伝・武備誌』エピソード59

<少林寺とラマ教>
少林寺は本来、禅宗の寺でしたが、少林寺の住持の蒙古族に迎合した福裕が、少林寺に秘密仏を持ち込んだことは十分に考えられ、緊那羅の像はラマ教の神と推測することも出来ます。ラマ教とはチベットに発達した仏教の一派で、チベット仏教の俗称です。ラマとはチベット語で〈上人〉〈師〉を意味し、各自の宗教上の師をさします。仏・法・僧の三宝のほかにラマをも尊崇するのでラマ教と言います。チベットへの仏教の伝来はソンツェン・ガンポ王(6世紀ころ)の時代とされ,仏教と古来チベットにあった民間信仰のボン教とが融合したものがラマ教です。さらに8世紀には、インドからシャーンタラクシタが戒律を、パドマサンババが密教系仏教を伝えてきました。また唐の禅僧・摩訶衍が大乗仏教を伝え、インド僧カマラシーラとの間で論争が行われました。この論争に敗北した中国仏教は、以後チベットから公に追放されました。9世紀中ごろランダルマ王は排仏政策をとり、王が暗殺された後のチベットは分裂状態になったので、仏教も次第に堕落しました。しかし11世紀にはインドからアティーシャが訪れ、仏教を改革してカダム派やサキャ派を興しました。13世紀サキャ派の高僧パスパは元朝王室の帝師となり、以後ラマ教は元・明の政治権力と結び再び堕落しました。しかし14世紀末にツォンカパが出て、宗教改革を行い、厳格な戒律実践を主張しました。彼は弟子に黄帽(こうぼう)を着用させたので,この派を黄帽派と呼び,旧来の紅帽(こうぼう)派と区別します。またこのツォンカパの後継者はダライ・ラマとして尊敬され、チベットの政治支配権も握り、ダライ法王国の基礎をつくりました。
(「図説中国武術史」「百科事典マイペディア」参照)

『琉球伝・武備誌』エピソード58

<少林寺守護神緊那羅>
それから長い間に渡って、少林寺は武勇をもって知られることはなく、明代に入ると拳法よりも棍法において知られるようになります。少林棍の起源は緊那羅王の神話に基づいています。伝承によると緊那羅は元末明初の少林寺に実在した炊事僧だったと言われています。普段は他人と話す事もなく、気にかける者もいませんでしたが、実は緊那羅はその身に卓越した武功を備えていました。ある時、寺の武術教頭が僧達を集めて彼らの練功の成果を見極めるために、試合を催してこれを競わせました。ところが全ての僧が試合を終えた時、緊那羅だけが出てきていない事に気づき、他の僧に命じて呼びに行かせたところ、緊那羅は炊事に使う棍棒を持って現れました。これを見た衆僧は「緊那羅に何が出来る」と皆笑っていましたが、緊那羅が擂台(試合用の一段高くなった台)に登り、棍を地面に突き立てると一尺(約30㎝)も地面にめり込み、動き始めれば棍は風を巻き起こし唸りを上げ、闘えば誰もこれに敵う者がいなかったとあります。また、当時中国各地で起こっていた紅巾軍という農民蜂起のならず者達が、寺の財産を狙って襲撃してきた時に棍を持って山門を飛び出し、これを一人で撃退し、「我は緊那羅王、観音菩薩の化身なり」と言い残して忽然と姿を消したとも言われています。緊那羅についての伝承は少林寺院内とはじめ、登封県内の民間にも伝わっていて、その呼び名は「緊那羅」、「緊那羅王」、「挪爺」、「挪夫」、「二輩爺」など様々でし。伝承の内容は、各々で完全には一致しませんが、概ね元末明初の少林寺僧であったという点で共通しています。緊那羅は現在でも少林寺院内の緊那羅殿に奉られている他、登封県内の磨溝、阮村、駱駝崖などの民間拳師の間では少林武術の守護神、もしくは始祖として尊敬を受けています。また有名な程冲斗の『少林棍法闡宗』の「紀略」の中に、「元の至正年間(1341~1367年)に紅軍(紅巾の賊)が難をなし、害をなして教を害す。適に竈下より一人出て慰めていう『惟衆は安んじて隠れ、我は自らこれを禦ぐ』すなわち神棍を奮う。灶煬(かまど)より身を投げうって、従って突いて出て嵩山の御塞の上に跨がりて立つ。紅軍は辟易して退く。寺の衆はこれを異しむ、一僧が衆に謂って曰う『汝は紅軍を助けたるを知るや?乃ち観音大士の化身〝緊那羅王″が是れなり』因りて藤を編んで塑像をなす、故にその技を演じて絶やさず。」とあります。程が『少林棍法闡宗』を著したのは明・万暦四十四年(1616年)ですが、これより100年程前の明・正徳十二年(1517年)に文載が撰した『嵩山祖庭大少林寺那羅延神示跡碑』によく似た神話が出ているため、程がこれを引用したことが推察できます。その碑の内容は次の通りです。「…『景躅集』の所載によれば、乃ち大元の至正十一年(1351年)3月26日の巳時、頴州の紅巾は初めて起こり、大乱して来る。少林に一聖賢あり、先んじて厨中(台所)に在りて作務し、数年を慇懃にして薪を負いて爨(かまど)を執る。鬢頭洗足にして単棍(下帯ひとつ)形赤(裸)なり、朝暮に寡言たりて衆の念を動さず、姓貫名無し(名前も戸籍も無い)、常に万行を修む。日は到りて紅巾が寺に臨む、菩薩は一火棍(火かき棒)を持して独り高峰を鎮める。紅巾はこれを恐れて退く。すでに時は則ち没し、後に瞥して見えず、乃ち菩薩の示跡を知り、永く少林寺の護法となして伽藍(寺)の地に坐す。僧子用記す」とあります。
(「図説中国武術史」「日本少林拳同盟会HP」参照)

『琉球伝・武備誌』エピソード57

<福裕和尚、禅宗五派を統一し、少林曹洞禅宗を創始する>
元初の福裕(1203~1275年)は、山西省水文県の人であり、俗性を張と言います。幼い頃より聡明で、様々な書物を一読しただけでその意を悟ってしまう事から郷里の人々に「聖小児」と称されました。休林に弟子入りし出家し、後に皇帝によって少林寺住持に封じられました。少林寺の『釋氏源流碑』によると、福裕はそれまで曹洞宗、臨済宗、雲門宗、潙仰宗、法眼宗の五派に分かれていた禅宗を統一し、少林曹洞禅宗を創始しました。同時に七十字の字輩を制定し、これ以降の法号はこの七十字輩の順序に従って命名される事となりました。福裕の「福」字を第一世とし、例えば少林寺現管長の釈永信は、元の時代から始まって第三十三世と数えます。現在は概ね「素、徳、行、永、延」の五代が活躍している時代です。因みに、少林寺の管長は非常に厳しい条件で選ばれます。今の管長の師である「徳善大師」が1989年に任命されるまで、少林寺には300年間ぐらい管長が存在しませんでした。管長は代々国から任命されないとなれません。今の管長も、もちろん中国政府から任命されています。
福裕は、かつてフビライ・ハーンの意旨を喜んで受け入れ、率先して道教を破壊して、「光宗正法大禅師」の号を賜り、さらに「大司空開府儀同三司」の位を贈られて、その栄顕は当時に並ぶ者がなく、世の僧侶たちは押し並べて福裕を最も尊び信じていました。また福裕は外蒙古の和林や、国内の燕薊、長安、太原、洛陽の五か所に少林寺を分建して仏法を広く高めながら外族(蒙古族)の統治を助けていました。
 「少林曹洞禅宗七十字輩号」
 福慧智子覺,了本圓可悟。
 周洪普廣宗,道慶同玄祖。
 清淨真如海,湛寂淳貞素。
 德行永延恒,妙本常堅固。
 心朗照幽深,性明鑒崇祚。
 衷正善禧禪,謹愨原濟度。
 雪庭爲導師,引汝歸鉉路。
(「図説中国武術史」「日本少林拳同盟会HP」「全日本少林寺気功協会HP」参照)

『琉球伝・武備誌』エピソード56

『琉球伝・武備誌』エピソード55
<少林武術中興の祖>
伝説によれば、明代には少林拳の中興の祖とも言うべき名人・覚遠上人が出て少林拳を大成させたと言われています。覚遠上人についての伝説は、民国四年(1915年)に世に出された『少林拳術秘訣』(尊我斉主人著)によるものですが、多くの疑問点や矛盾があり、多くの人が否定しています。覚遠上人は明・嘉靖年間(1522~1566年)の人とも金末元初の頃の人とも言われています。厳州(浙江省建徳県)の世家子(名家)に生まれましたが、幼少の頃より武術を好み、洪蘊禅師の武名を慕って出家を志し少林寺に入山して得度しました。覚遠は性豪邁にして才知にたけ、拳法と剣術を習得していました。覚遠は少林寺の蔵経閣の管理をしていましたが、満足することなく、少林寺の武術をより完備されたものに発展させるため、師父の洪蘊より許可を得て、少林寺を下山して、四川・湖南・湖北・雲南の各省に名師を求めて遊歴しました。覚遠はまず甘粛省の蘭州で李叟と出会い、二人は数日の間切磋琢磨した後、李叟の紹介でやはり武術の名人である白玉峰を訪ねる事になりました。白玉峰は山西省太原の人で、李叟の朋友でした。そして河南省洛陽で丁度当地に逗留している白玉峰と会い、洛陽の同福禅寺を宿として、朝夕練習に励みました。その後、覚遠の熱心さに感動して、覚遠、白玉峰、李叟親子の四人で少林寺に帰還しました。四人は寺内で切磋琢磨し、白玉峰は自らの技を隠すところなく覚遠に伝授しました。まず白玉峰は覚遠と協力して、少林寺に伝わる数百の套路について系統的な整理を行いました。そして覚遠は寺に元々あった羅漢十八手を七十二手に発展させ、後々更に百七十三手にまで増加させました。更に白玉峰は『五拳精要』を著し、『龍、虎、豹、蛇、鶴』の少林五拳を創始しました。白玉峰は子供も無く、既に妻にも世を去られていたため、後に少林寺に帰依し、秋月と法号を定めました。白玉峰は気功に優れて剣術を最も得意としました。李叟は少林寺で数十年に渡り擒拿や棍術の絶技を伝授した後に寺を離れました。李叟の息子は寺に残り仏門に帰依し、法号を澄慧と称しました。覚遠と白玉峰はその功績により、後世の人々は少林武術中興の祖として、二人を「覚遠上人」、「秋月禅師」と尊称するようになりました。
(「中国武術」「日本少林拳同盟会HP」参照)

『琉球伝・武備誌』エピソード55

<天下第一の名刹>
少林寺がはじめて「天下第一の名刹」と称されたのは977年で、宋の第二代皇帝・趙光義(939~997年、在位976~997年)が太平興国二年に少林寺を「天下第一の名刹」と定めたことに始まります。趙光義はこのとき自ら筆を振るって「天下第一名刹」と書き、その六文字の大きな額は、少林寺の玄関である天王殿に掲げられました。趙光義はどうして少林寺にこのような名前を与えたのでしょうか?その原因は趙光義の兄である、宋太祖・趙匡胤(927~976年、在位960年~976年)に由来します。趙匡胤は幼い頃より少林寺に入って、元珪禅師の弟子となり、仏教と武術を十数年学びました。武術で一人前になってからは、柴栄(921~959年)を兄として義兄弟の契りを結び、多くの戦功を打ちたてています。のちに柴栄は、五代後周の第二代世宗(在位954~959年)に即位したのですが、即位二年目に廃仏令を出しました。この宣旨は、仏教勢力の力を弱め、法難と仏教側からは非難されています(三武一宗の廃仏の4回目)。それまでの廃仏令では、多かれ少なかれ仏教と対抗する道教側からの示唆・介入があったのに対して、世宗・柴栄の廃仏は純粋に経済・国家統制上の観点からのものであり、税・兵役忌避を目的とした出家や資産の寺院への流出の防止、仏教勢力からの権益の獲得を狙いとしました。逸話として、世宗・紫栄は当時、銅が不足していたため、仏像を潰して使うように命じます。罰が当たると反対する部下に、世宗は「仏像は仏ではない。それに、もし、仏ならば、民のために喜んで身を差し出すであろう」と言った合理的な思想の持主でした。これらによって増えた税収と没収財産は、軍事再編成の費用に当てられました。これにより、国中の寺院も仏像も全て破壊されてしまったのです。この時、趙匡胤はかつて少林寺から受けた恩を忘れず、「他の寺を滅ぼしても、少林寺は滅ぼしてはいけないし、仏像を破壊しても仏教の経典を消滅させてはいけない」と、柴栄に進言しました。そして、他の寺院にあった経典を全部少林寺に送って保存させました。この結果、ほどなくして少林寺は中国の中で経典が一番多く、完備された寺院となったのでした。趙匡胤はその後、宋を建国したのですが、帝位についた後、命令を下して少林寺の大仏寺を修復し、また経典保存用の大規模な建物も建てています。こうした経緯があったため、趙光義は趙匡胤の次に即位した後、兄の遺志を引き継いで少林寺を保護し、「お経が一番完全に保存されている寺院」という意味をこめて、少林寺に「天下第一の名刹」をいう名前を贈ったのです。少林寺にとって、宋太祖・趙匡胤は大恩人となる訳です。
(「中国武術」「日本少林拳同盟会HP」「全日本少林寺気功協会HP」参照)

『琉球伝・武備誌』エピソード54

<十八家の武術高手が少林寺に集う>
宋太祖建隆初年、当時の方丈であった福居和尚は全国の武術高手を少林寺に招き、三日間に渡って以武会友(交流試合)を行いました。その内、特に優れた十八家の拳師に要請して寺に留め、千佛殿(寺の練功場所)にてぞれぞれの門派の技を寺僧に教授させ、同時に少林寺の秘技を彼らに伝えました。福居はこれら十八家の技を、長を取って短を補い、一冊の『少林拳譜』を編纂しました。十八家の門派は「太祖長拳起首、韓通通臂為母、鄭恩的当門纏封、温元的短拳快攻、馬籍的短打截法、黄佑的貼身靠打、孫恒的穿山拳、錦盛的迎面掌撃、金箱的蓋手通拳、劉興的勾搂探手、譚雲的漏滾手法、孟獲的七勢連拳、燕青的粘拿跌法、林冲之鴛鴦脚、崔連之窩炮捶、揚滾之捆掳直入、王郎之蟷螂克敵、高懐徳之摔掳硬崩」です。この故事が事実であれば、当時の少林寺が中国でも有名な武術の学府であり、そこで大いに他門派との技術交流が行われていたことを推測させるものですが、明確な根拠や文献を見つけることが出来ません。十八家の技法名を見ても元末、明初の時代の作と思われます。また、『北拳彙編』では、「少林派はまた外家と称され、趙匡胤は元祖である。趙匡胤には凄技があり、秘匿して人には見せなかったが、酔った勢いで群臣にその奥義の蘊蓄を語った。彼はこれを悔やんで、食べ物も喉を通らず語らなくなり、遂にその書を少林寺の神壇(神棚)の中に安置した。その(拳)法は硬功直進に優れている。」とありますので、少なくとも宋太祖・趙匡胤と少林寺が密接な関係であることは間違いありません。
(「中国武術」「日本少林拳同盟会HP」参照)

『琉球伝・武備誌』エピソード53

<武則天(則天武后)と少林寺、及び登封、武科挙>
武則天は中国の歴史上で唯一の女帝です。元々は唐太宗李世民の才人(妃の一種)でしたが太宗の死後、高宗李治の皇后となりました。病気がちであった高宗に代わって垂簾聴政を行い高宗の死後、ついには皇帝の座にまで登り詰めました。武則天は生涯で10回に渡り嵩山に登り、少林寺にも幾度も訪れては多くの寄進を行いました。683年、武則天はかねてより少林寺に建立を要請していた亡母揚氏のための十層下生弥勒仏塔の早期竣工を促すため、甥の武三思を遣わして、寺主に宛てた親筆と共に金や絹などを下賜しました。これによって仏塔は揚氏の三周忌に間に合うかたちで完成し、無事功徳を行うことが出来ました。この時の手紙の内容は、『大唐天后御制文』碑として少林寺に残っています。
690年、自らを聖神皇帝と称し帝位に就き、洛陽を神都と定めました。695年には嵩山に登って封禅の儀式を行い、天地の神霊に即位を報告し天下の泰平を祈念しました。そしてこの年を万歳登封元年と改めました。「登封」の地名はこの事跡に由来するものです。
700年、77歳になった武則天は嵩山山頂に登り法事を行い、最高峰の峻極峰に贖罪の金筒を奉納したと言われています。この伝説に従って多くの人が嵩山に登りこの宝貝を求めましたが、一向に結果を得る事は出来ませんでした。しかし1982年5月21日、登封県唐庄公社の農民屈西懐が嵩山峻極峰で薬草を採取していたところ、武則天が建立した「登封壇」の西南1メートルにある大岩の下から偶然に、ひとつの長方形の金属片を掘り出しました。表面は黄土で汚れていましたが、手で拭いてみるとそれは光り輝き、表面には文字が刻まれていました。後に国家文物局の鑑定によって、これこそが武則天が嵩山山頂に奉納した「除罪金筒」であると判明しました。金筒は長方形で、長さ36.5ミリ、幅8ミリ、厚さ0.1ミリで主さは233.5グラム、金の純度98%以上であったそうである。これは現存する武則天に関する唯一の文物で、その価値は計り知れません。
また、武則天は長安二年(702年)に、歴史上初めて科挙の一科目として武科挙の制度を設けた皇帝として特筆すべきでしょう。唐代初期の吐蕃・突厥・契丹といった異民族との戦争が絶えず、異民族がしばしば侵入し、辺境だけでなく、中原地域の安全を脅かしていました。武則天と配下の官僚たちは深厚な外患に対して効果的に軍事的人材の選抜を行うべき状況であったのです。不定期で行われた武科挙は出自や官品を一切問わず、庶人でも受験可能な制度でした。この制度においては「謀略」(兵法)、「才芸」(武芸)、「平射」と「筒射」(射術)の成績によって合格者が選抜されました。定期の武科挙は毎年旧十月に行われました。まず、各州府で「郷貢」と呼ばれる当地の試験によって選抜された希望者を招集し、願書の内容を審査してから都の尚書省に届け出て、さらに受験者を率いて兵部主催の試験である「会試」を受けさせました。「会試」の試験監督は兵部院外郎が務めました。定期の武科挙は「平射」と「武挙」の二つの科目に分かれています。『唐六典』巻五では、「武挙」はさらに「射長垜」「騎射」「馬槍」「歩射」「材貌(身体・年齢)」「言語」「拳重(力)」の七科目が列挙されています。
(「中国武術史」「日本少林拳同盟会HP」参照)

『琉球伝・武備誌』エピソード52

<十三棍僧、唐王を救う>
少林寺は北周武帝の廃仏政策の時、建徳三年(574年)には、全国の寺と同様に破壊されましたが、5年後の大象元年(579年)に静皇帝の命令によって陟岵大寺の名で再建されました。随文帝の頃(581~600年)に再び少林寺の名に戻りました。少林寺僧の武勇が初めて世に知られたのは、唐初(618年)に起きた「王世充の乱」です。武徳四年(621年)、随が滅亡し、新たに唐朝が長安に興った時代のことです。随の遺将王世充が洛陽に「鄭」国を建て、自ら皇帝と称していました。唐第一代高祖李淵は唐王朝の統一政権を更に強固なものとするため、息子の李世民に命じて王世充を討伐すべく、洛陽に向かわせました。この時、少林寺は志操、曇宗をはじめとする僧兵団を派遣し、進んで李世民を助けました。少林寺の武僧達は戦闘の中で、王世充の甥である王仁則を生け捕りにするなど多大な功績を立て、結果王世充の鄭を下すのに大きな力となりました。後に李世民が帝位に昇った際、以前の功労を忘れず、少林寺に広大な荘園を与え、以後寺の僧が武術を練功し兵力を保持する事を赦した他、曇宗を大将軍の位に封じた。これ以後、少林寺はますます隆盛を極め、同時に時の権力者との繋がりを強めていった。映画『少林寺』の元にもなった有名なエピソードで、少林寺の白衣殿にもこれに題材を取った壁画がある他、李世民の親筆が刻まれた『太宗文皇帝御書碑』が残っています。その後、唐代には歴代の皇帝による援助が多く成された為、少林寺は栄盛を極めて、皇帝を始め多くの名士が訪れる様になりました。また、この頃に白楽天、沈佺期、韓退之などの有名な詩人が少林寺を訪れて詩を詠んでいます。
(「図説中国武術史」「日本少林拳同盟会HP」参照)

『琉球伝・武備誌』エピソード51

真偽の程はともかく、達磨大師の伝えたとされている『易筋経』と『洗髄経』について述べます。二つの経は、拳法の技法を伝えるものではなく、身体強健の方法を伝えるものです。『易筋経』が達磨大師の作だと言われている由縁は、唐・貞観二年(628年)に三原(陜西省)の李靖が『易筋経義』(インド語の原点を中国語に訳したもの)の序文に、易筋経の由来を述べたことに始まっています。『易筋経』の序文を要約すれば、「魏の孝明帝が正光年間に達磨大師が梁より魏に行き、嵩山少林寺で面壁したが、ある日弟子に対して『それぞれ修行によって得たものを述べてみよ。』と言ったので、弟子達はそれぞれに己の思っていることを大師に申し上げると、大師はそれぞれに『某は吾が皮を得たり』また『某は吾が肉を得たり』と言い、ただ慧可という弟子にだけ『汝は吾が髄を得たり』と言った。その時に弟子達は大師の言葉が理解出来なかった。やがて大師が9年の面壁(座禅)を終わって死んだので、慧可は熊耳山の麓に葬り、大師の面壁した所を記念して碑を刻んだ。後にその場所が風雨によって破損したので、一寺僧が修理をしようとして壁の中に鉄函の埋没されているのを発見して取り出した。その鉄函を開けると中から二つの経書が出てきた。一つを『洗髄経』と言い、一つを『易筋経』と言う。洗髄は人の愛に生じ、欲に生じ、一落有形すべて尽く仏諦を修めたもので、人間の五臓、六腑、四肢、百骸を一々洗浄せんとするを言い、易筋は骨髄の外、皮肉の内、筋肉でないものはない故に全身の筋を磨厲して壮とするものである。洗髄経は慧可が一人秘伝としたので、世間の人が見られるのは稀である。(後略)」とあります。
いずれにしても、達磨大師作の『易筋経』と『洗髄経』という証拠は無く、現存の『易筋経』は、清の道光七年(1827年)に出現したものなので、どうしても偽作の疑いを持たれてしまうのですが、内容自体は相当に古い養生思想を伝えており、釈尊の数息観(大安般若守意経)とも共通する点が多く、5世紀ごろの作と伝えられている『ヨーガ経』にも似たところがあるので、これを単に清朝時代の偽作だとすることは出来ないと思います。
『洗髄経』の目的とする所は、人間が様々の欲望によって汚染されてしまった体内の諸器官から、五体の尽くを洗い清めることにあり、『易筋経』の目的とする所は、人体が持って生まれた筋肉の弛、変、弱、縮、壮、舒、勁、和などの個人差を揉、打、叩などの方法や各種の体操によって改造することにあり、人体の内外共に強健にすることにあります。
(「中国武術」「格闘技の歴史」参照)

『琉球伝・武備誌』エピソード㊿

<二祖慧可>
禅宗二祖の慧可禅師(487~593年、洛陽武牢(河南省滎陽市)生まれ)は、俗名を神光と言いました。はじめは儒教や老荘思想を学びましたが得心せず、香山の永穆寺で得度しました。出家後は問法のため各地を放浪し、さらに香山に戻り8年間修行を続けたものの、疑念を解明することが出来ず、嵩山の少林寺で面壁していた達磨に面会し弟子入りを請いました。神光は達磨に入門の許しを乞いますが、達磨は方丈室の後ろの小殿に隠れたきりそれに応えることはありませんでした。折しも少室山には大雪が降り、雪は堂前に立ちつくす神光の下半身を埋める程に積もりつつありました。重ねて懇願する神光に達磨は「その雪が紅く染まったなら弟子として入門を許す」と言い、神光はその場で自ら左腕を切り落とし、弟子入りの願いが俗情や世知によるものではない事を示しました。これを見て達磨は神光の弟子入りを認め、「慧可」の法号を与えました。この逸話は「立雪断臂」として有名であり、慧可が腕を切り落とした場所を「立雪亭」、慧可が断臂の傷を癒した場所を「二祖庵」と言い、現在に語り継がれています。実際は元から臂がなかったため、後からこの伝説が作られたとも言われています。ある時慧可は達磨に、「(永らく仏法を修行して来ましたが)私の心は未だ安まりません、どうかこの心を鎮めて下さい」と請いました。達磨はそれに対し、「それなら汝の心を持ってきなさい」と答えましたが、慧可は「心を探しましたが、ついに見つかりませんでした」と言い、遂には達磨の「我はすでに汝を安心させている」との一言で忽然と悟りを開き、達磨より衣鉢真伝を授けられ禅宗の第二祖となりました。
慧可曰:「我心未寧、乞師与安」
達磨曰:「将心来,与汝安.」
慧可曰:「覓心了不可得.」
達磨曰:「我与汝安心竟.」
慧可は弟子の鑑智僧璨を育て法統を伝えましたが、布教には困難が多く常に迫害や妨害に晒されていました。北周武廃の廃仏政策では都を出て安徽省の皖公山に避難を余儀無くされました。城安県での布教中、慧可の説法に聴衆を奪われた匡救寺の僧弁和が慧可を憎み、「講席を打破した邪見の道人」であると讒訴しました。弁和の訴えを聞いた県令は慧可を捕らえ、取調べなしに処刑しました。享年106歳でした。
(「日本少林拳同盟会HP」「ウィキペディア」参照)

『琉球伝・武備誌』エピソード㊾

禅宗の開祖として有名な達磨大師(483~540年、天竺生まれ)は、契嵩著の『伝宝正宗』(1061年刊)や『宋高僧伝』(988年)によれば、「梁武帝の普通元年(520年)9月21日にインドより船で漂うこと3年にして広州にたどりつき、梁武帝と会見するも意に合わず、一人揚子江を渡って魏国に入ったが魏の人達もまた達磨大師を重んじなかったので、嵩山に赴き少林寺に入って面壁した」とあります。また、『景徳傳燈録』(1004年)によると、達磨は南天竺(南インド)香至国の第三王子として生まれました。本の名を菩提多羅と言います。釈迦の弟子摩訶迦葉から数えて二十七代の般若多羅に弟子入りし、菩提達磨と名を改めました。後に師の「震旦(中国)にいくべし」との助言に従い、梁普通年間(520~527年、その他諸説あり)に中国に渡りました。天竺の高僧来中の報せを受けた梁の武帝は早速達磨を宮廷に招き謁見しますが、仏法の認識について意気投合せず、達磨は帝の下を辞退し北上し、最後に嵩山に至りました。この時、達磨と武帝の行った問答は以下の如くでした。
武帝問曰:「如何是聖諦第一義?」
達磨答曰:「廓然無聖」
武帝問曰:「朕建寺斎僧有何功徳」
達磨答曰:「無功徳」
武帝問曰:「対朕者誰?」
達磨答曰:「不識」
大意を訳しますと、一問目「仏教の第一義は何か?」、「がらんとして何もない」 二問目「朕は寺を建立し、僧を養ったがどのような功徳があるか?」、「無功徳である」 三問目「朕の目の前にいるのは誰か?」、「識らず」といった意味です。ごく短い、簡単な問答ですが、達磨の仏法に対する考え方をよく表した名言です。その後、嵩山に至った達磨は「面壁九年」の坐禅を行った後、少林寺に入り、中国禅宗の第一祖となりました。達磨が面壁した洞窟は「達磨洞」と言われ、少林寺の裏山に今でも史跡が残っています。また少林寺には、座禅を行う達磨の影が焼き付いたといわれる「面壁石」が保管されています(※これは模造品であり、実物は二八火厄で失われた)。達磨に関してはこれ以外にも多くの逸話が残されていますが、どれも神秘的色合いが強いものです。達磨が遺した『易筋』・『洗髄』の二経から少林武術が発生したという説もありますが、達磨に関する多くの文献を調べても『易筋』・『洗髄』の二経はおろか達磨が武技をわきまえていたという記録は見当たりません。これらは後世の創作であろうと言われています。但し、ここで考えなければならないことは、達磨大師一人を否定しても意味が無く、中国へインド武術の伝来交流があったかもしれない事実が大切です。古代インドは戦乱に明け暮れていて、武術を学び、武器を研究していたことは叙事詩マハアバアラタ(紀元前400~300年)などの古典に多く見られます。法華経、本行経、百録経等の経典にも武術が記載されています。余談ですが、釈迦(紀元前565~486年説と465~386年説が有力)の伝記の中にも少年の頃に武術を学んだことが記載されています。釈迦が17歳の時にヤショーダラ姫と結婚するために、多くの求婚者達と各種の武技を争った記録があるそうです。
(「中国武術」「風雲少林寺」「日本少林拳同盟会HP」参照)

『琉球伝・武備誌』エピソード㊽

<少林寺の創建>
ここであらためて、少林寺の存在について述べたいと思います。日本で武術と言えば武士達に受け継がれてきた技芸でしたが、中国においてその伝統を守ったのは民衆であり、諸国を遊行する道士であり、民衆を教化した僧侶達でした。
少林寺は、『魏書』巻114「釈老志」によれば、その創建は、496年(太和20年)で、孝文帝が、天竺(インド)から渡来した西域沙門の跋陀禅師の住寺として、河南省登封県の少室山陰、五乳峰麓の地に建立したとされています。跋陀は少林寺に住みインド伝来の経典を翻訳し、説法を行い、仏法を広めました。翻訳したものには『十地』、『華厳』、『維摩』、『涅槃』などの経文があります。跋陀が少林寺に伝えた仏教は小乗仏教であり、後に菩提達磨が伝えた大乗仏教とは枝を異にする一派です。小乗仏教とは、大乗仏教が衆生の救済を第一と考え、自らの派を「大きな乗り物」即ち大乗と称するのに対し、自我の解脱を第一の目的としたインドの比較的早期に生まれた仏教です。跋陀の高弟には慧光、道房、僧稠などがあります。跋陀は少林寺に二年留まり、その後一切を慧光に託して寺を去りました。跋陀が少林寺を離れた後、寺の仏事その他の安排は慧光が司り、慧光が寺を離れた後は僧稠がその後を継ぎました。「少林寺」の寺号は孝文帝の命名によるもので、皇帝の「寺門に二株の樹木あり、二木で林と為す。山峰少室山、峰下に建寺す。名を少林寺と云う」との言に由来します。元来、「嵩山少林寺」の名で呼ばれています。嵩山は二つの山塊を持ちます。一つは大室山であり、もう一つは小室山です。嵩山は神話の山でもありました。黄河の治水に成功して、夏王朝を建てたと言われる禹は、二人の妻を持っていたそうです。彼は二人の妻をそれぞれ大室山と小室山に住まわせていました。大室山は先に娶った妻の住居であり、後で娶った若い妻が小室山に住みました。「少」には「若い」という意味があるそうです。嵩山は中国五岳の第一に挙げられる名山であり、古くより別名が多く、外方、嵩高、中獄、太室、崇高、半石山などと呼ばれていました。大室山には三十六峰、小室山には二十四峰があって、大室山は高いこと、小室山は険しいことが特徴です。厳密には嵩山には入らないのですが、小室山の隣に五乳峰があり、少林寺があります。
(「図説中国武術史」「風雲少林寺」参照)

『琉球伝・武備誌』エピソード㊼

第三の要素として、「北慮南倭」が中国武術の変化に大きな影響を与えた点を挙げることが出来ます。明朝が直面した対外問題としては北方からのモンゴルの侵入と東南沿海地方への倭寇の襲来が挙げられます。これら二つの外患はまとめて「北慮南倭」と呼ばれました。中国の軍事史において、明代は中国の伝統的軍事文明が最も発展した時代であり、軍隊の編成と訓練、武器の改良と開発といった各方面において顕著な変化が生じた時期と言うことが出来ます。そして、これらの変化はまさに上述の「北慮南倭」に関連した発生した事象なのです。当時、明帝国の軍事的重要課題は第一に北辺の防備でした。正統14年(1449年)9月8日には、交易の拡大を求めたオイラート(瓦剌)部の指導者エセンが明領に侵攻したのに対して、親征を行った明朝正統帝(英宗)が、土木堡(現在の河北省張家口市懐来県)でエセンの軍勢に大敗し、正統帝自身も捕虜となった戦いを「土木の変」と言います。中国史上でも珍しい、皇帝が野戦で捕虜になった事件として知られています。また、明代に滅ぼされて北走した元朝の子孫は,西方のモンゴル系の別部オイラート (瓦剌)部 を打ち破って,内モンゴルに覇権を確立しました。明代の中国人はそれら元朝の子孫を韃靼と呼びました。タタールは明初何度も明軍の攻撃を受け,オイラートにも圧迫され衰退しましたが、ダヤン・ハーン (達延汗)(1464~1524年、 チンギス・ハーンの後裔・モンゴルの第34代。北元としては第20代の大ハーン。モンゴル諸部を再統一した中興の祖)、がタタールを統一し、それを基盤に アルタン (俺答)(1507~1582年) は明に侵入して苦しめ,オイラートを外モンゴルから一掃して、青海地方をも征服しました。これらの地方へモンゴル族が移住し、それが今日のモンゴル族の分布につながりました。また、チベットに遠征し、ラマ教のモンゴル族への流布の契機をつくったのも彼でした。 13世紀にモンゴル族の侵入を受けたヨーロッパ人は彼らを悪魔 (タルタル) と称し,モンゴルとその支配下のチュルク系民族をタルタル、タタールと呼び,以来今日でも旧ソ連邦のヨーロッパ・ロシア、カフカス、シベリアのチュルク系住民はタタール人と総称されています。特に、嘉靖中期に至るまでは明朝にとって北方のモンゴル高原に盤踞するタタール部(韃靼)が大きな脅威となっていました。タタール部(韃靼)は毎年のように河北や山西の北部で襲撃と略奪を繰り返しており、嘉靖二十九年(1550年)にはついに北京を包囲して明朝廷を震撼させています。唐順之が「日本刀歌」で『爾来(近来)敵騎頗る驕黠たりて、昨夜三関よりまた警を聞く。誰か能くこれを将いて龍沙に向かい、奔騰して単于の頚を一漸せん』と詠んだのもモンゴルの侵入を指すものでした。明朝政府は辺境の防備を整えるために長城を改築して拡張し、将兵を訓練して歩兵・騎兵などの部隊から成る合同軍を編成しました。こうして辺境の防備は堅固なものとなり、ようやく北方の秩序は回復されました。
(「中国武術史」、ウィキペディア参照)

『琉球伝・武備誌』エピソード㊻

第二には、産業の急速な発達に伴って民間武術の発展が加速された点を挙げることが出来ます。明代の社会面に関する特徴の一つは産業の飛躍的な発展です。明初には為政者が経済の回復に力を注いだため、戸籍や開墾地が次第に増加すると共に元末の戦乱によって荒廃していた農業や手工業が目覚ましい回復を遂げました。また、各地の都市経済及び治安の回復に伴って南京と北京を中心とした南北の流通経路が確立し、商業取引が活発に行われました。東海沿海の諸港においても外国との貿易が往来が次第に活発化しています。さらに明世宗の治世である嘉靖年間(1522~1566年)以降は農業や手工業がより一層発展し、これを受けて商業が空前の活況を示すようになりました。こうした生産と物流の発達に伴い、鈔(紙幣)に変わって銀が通貨として流通し始めた点も注目に値します。銀による通貨体制の登場は国内の商品経済の発達に大きな成果を上げたばかりでなく、明と諸外国間の貿易拡大も促進しました。この様な商品生産の展開及び商業・貨幣経済の発達を背景として庶民の生活レベルが向上し、民間においても武術が盛んに行われるようになりました。武術家が各地を旅して腕比べに励み、良師を求めては教えを乞うて武技の研鑽を積んだことが当時の資料に記されています。また、この時期には武術の演武が頻繁に行われ、さらに技術に関する議論や検討なども多く見られるようになってきました。特に、民間の武術家が著述を残していることが技術的な発展と並ぶこの時期の武術の特色です。民間に広く普及した武術は多様化と複雑化の傾向を強め、拳・棍・刀・槍及び雑式兵器の流派が林立して互いに競い合い、様々な拳械譜及び武術歌訣が作られました。また分派化した後の民間武術には流派による特色が明確に現れる様になりました。また、回転や跳躍といった装飾的な動作の多く含まれた套子武芸が一層展開し、軍隊にまで浸透して影響を与える一方で、軍事武術家は当時の民間に見られた各種の武術技能に対する研究を重視し、それらの中から実戦に効果的な内容のみを精選して活用することに努めました。
(「中国武術史」参照)

『琉球伝・武備誌』エピソード㊺

明代は軍隊民間を問わず、武術が顕著な発展を見せた時代であると言えます。当然ながら、この様な発展は当時の社会的状況と密接に関連して起きた現象であり、そうした社会状況的背景を知ることは武術の発展を社会の動向との因果関係において把握し、その発展が持つ傾向や特徴の源を明らかにする必要があります。それには、明朝政府による政策に関わるもの、経済的な状況の変化、外敵の侵略によるものの三点を挙げることが出来ます。
第一に、民間武術が置かれた法的状況の大転換です。元末に頻発した大規模な農民一揆によって民間での武器所有及び武術訓練に対する元朝の禁令が完全に無効になったことです。明朝の統治者は民間における武術訓練に対して寛容であり、かつ文武兼備の教育を重視しました。この転換によって元代には完全に逼塞していた民間における武術活動が明代に至って全国的に活性化しました。朱元璋は民平万戸府を設立する旨の詔を下し、民間から武勇に優れた人材を精選抜擢して隊伍を編成、操練を施して有事になれば戦争に動員し、平時には各地で民兵として用いる組織を作りました。こうした背景において武術を行う気風が全国的に高まりました。そして、宋代以来、各地に成立した郷兵の武術には地域ごとの伝統的、文化的風土の相違から様々な個性が生じましたが、明代に入ると、それらが更に活発に展開していくことになったのです。
(「中国武術史」参照)

『琉球伝・武備誌』エピソード㊹

中国を統一した洪武帝・朱元璋の治世(1368~1398年)の30年に及びます。初代としては長い治世です。朱元璋は明確なビジョンを持って政治を行いました。それは農業を基本とする中央集権国家です。中央と地方の行政組織を改変して、皇帝の独裁体制を強め、土地台帳や戸籍を整備して、農民支配を確実にしました。農村の復興や治水にも尽力し、農民の教育にも力をいれました。自分の生まれた家の様な飢えた農民を作らないというのが朱元璋の目標でした。農民出身であった朱元璋は農業、特に米や麦などの穀物生産を重視する政策を取りました。特に重要視したのは、明が創業の地とした江南の豊かな農業資源です。宋の時代には「蘇湖熟すれば天下足る」と呼ばれていまいましたが、明代にはその一地域であった蘇州・松江のみで「蘇松熟すれば天下足る」と称されるようになりました。朱元璋は張士誠の支配地域であったこの地域を真っ先に占領して農地を国の直轄としました。さらに中期ごろからは長江中流域の湖広(現在の湖北省・湖南省)の農地開発が急激に進み、末期には「湖広熟すれば天下足る」と呼ばれました。一方で、貿易や商業には全く興味が無く、むしろ悪だと思っていたようです。対外貿易を禁ずる海禁政策が取られ、大商人は弾圧しました。朝貢貿易にも熱心ではありませんでした。商業国家であり、世界的な貿易ネットワークを構築した元朝を否定したい気持ちがあったのでしょう。しかし、極端な重農主義と海禁政策は、一方で、反明集団との軋轢を激化させていく結果となるのです。
(「中国皇帝伝」参照)

『琉球伝・武備誌』エピソード㊸

朱元璋によって科挙の受験を禁じられた一族をもう一つ紹介します。それは蒲寿庚の末裔たちでした。蒲寿庚(1205~1284年)は、中国南宋末から元初期の商人、軍人、政治家です。アラブ系イスラム教徒、元代の「色目人官僚」の嚆矢ともいえる人物です。南宋時代泉州において貿易商として財を成し、地域の有力者として頭角を表します。朝廷にその実力を認められ、招撫使に任じられ福建水軍の司令官となります。1276年南宋末期の動乱時、端宗を奉じた宰相陳宜中らを中心とする南宋首脳部は蒲寿庚の財力、軍事力を頼り、福州から泉州への遷都を計画していましたが、この時、元に寝返って南宋に叛旗を翻しました。投降の際、泉州城内の宋の宗室を処刑し、元に忠誠を誓いました。本来、出自が騎馬民族である元は水戦を苦手としていたが、蒲寿庚の投降により水軍勢力を強化し、南宋の亡命政府を崖山に追い詰め滅ぼしました(崖山の戦い)。蒲寿庚は南宋の泉州市舶司の長官でした。南宋末は、泉州には約2000人の宗室がいて、皇室との縁故を笠に着て、横暴な振る舞いが多かったそうです。元軍南下の際に、泉州は恐慌状態となり、それを鎮静化するには、どうしても宗室の乱暴者を粛清する他なかったのです。蒲寿庚はその功績によって、元代に入っても引き続き重用され、泉州の長官となって、泉州を当時中国最大級の貿易港へと発展させました。泉州は、マルコ・ポーロが『東方見聞録』の中でザイトウン市として紹介した街です。13世紀にあっては、世界最大を誇る二大海港の一つとマルコ・ポーロが折り紙をつけています。しかし、後年、朱元璋はこれを憎み、蒲寿庚の末裔たちに科挙を受験することが出来ない厳罰を与えたのでした。泉州は明代初期には「市舶司」が置かれて貿易港として認められましたが、その貿易は、琉球の進貢貿易に限られました。元代には、世界に開かれた大貿易港であったのに、明代にはたかだか琉球貿易の一基地に過ぎなくなりました。しかも明の成化十年(1474年)には、泉州の市舶司は福州に移されてしまい、泉州はさびれる一方でした。つまり、泉州は南宋の宗室が多数存在していること、かつて世界的な大貿易港であったこと、琉球進貢貿易の拠点であったこと、蒲寿庚の末裔は被差別民として明朝に対する深い恨みを持っていた等、泉州にまつわるこれらの史実も今後に重大な意味を持ってきます。
(「戦国海商伝」、ウィキペディア参照)

『琉球伝・武備誌』エピソード㊷

今後に重大な意味を持つ、明朝草創期の隠された史実について触れたいと思います。激しい争奪戦を繰りかえし、天下を統一して、大明国の初代皇帝となった朱元璋は、王者の寛容さを誇示するために、史上有名な「鄱陽湖の戦い」で葬り去った憎きライバルの陳友諒の子の陳理に、「お前の罪ではない」と言って許したばかりか、帰徳公を授けました。いわば華族の一員としたのです。しかし、その部下が、旧主を擁立することを恐れて、彼らを遠く、浙江の海上に強制移住させました。これが「九姓漁戸」の起源と言われています。元々、陳友諒の部下は、鄱陽湖、九江のあたりの漁民が多かったのですが、江西から浙江の舟山までは、1,000km程も離れています。朱元璋はこの宿敵の部下たちに、「一般の人と通婚してはならない」「陸上に住んでならない」という厳しい掟を課しました。さらに最大の差別は、国民なら誰にも受験資格のある筈の科挙(管理登用試験)を、「九姓漁戸」の人達は受けることが出来ませんでした。皇帝が制圧した敵に下した懲罰なのです。浙江のこの被差別九姓は、「陳・銭・林・李・袁・孫・葉・許・何」の諸姓でした。猜疑心の強い朱元璋はそれでも安心できずに、南京に住んでいた帰徳公・陳理をはるか遠くの高麗に移しました。これでは舟山の旧部下が旧主に連絡しようとしても不可能でした。その後も、かつての部下達に課した掟を緩めようとはせず、忘却されたとも思われるこの仕打ちは残酷の極みと言えましょう。差別を受けているのは、国家の保護がないことに他なりません。国法の恩恵を受けていない九姓漁戸達が、国法を尊重しないのは当然の成り行きでした。彼らの中から、後の「海寇」「海商」「倭寇」と言われる集団が形成されたとしても不思議ではありません。。
(「戦国海商伝」参照)

『琉球伝・武備誌』エピソード㊶

元代の雑劇である「元曲」の中には口語で当時の民間における槍や棒などの武術練習を描いたものがあります。これらは、明代の戚普叔の撰による『元曲撰』に収録された作品から伺い知ることが出来ます。「十八般武芸」という語は南宋時代に華岳の『翠微先生北伐録』の中で初めて使用されます。後に民間武術において好んで使用されることになった言葉です。その為、十八般武芸の内容に関する記述は各時代における民間武術の発展をある程度まで反映したものとなります。前述した元朝明初の小説家の施耐庵は『水滸伝』第二回「王教頭私に延安府に逃れ、九紋竜大いに史家村を閙(さわ)がす」の中で、十八般武芸の内容を列記しています。「史進は毎日、王師範に十八般武芸の点撥(稽古)を求め、一々、頭より指教せられる。その十八般武芸とは、矛・鎚・弓・弩・銃・鞭・簡・剣・鏈・撾・斧・鉞・戈・戟・牌・棒・槍・杈なり。」以上の様に、元代の文学において十八般武芸に関する記述は次第に具体化していきました。このことは当時民間武術の内容が豊富かつ多彩な方向に反映していったことを証明しています。
(「中国武術史」参照)

『琉球伝・武備誌』エピソード㊵

こうした元朝末期の腐敗と混乱の様相は。『水滸伝』の物語の中に良く描かれています。勿論、『水滸伝』に登場する話は、北宋時代の末期頃から始まっているのですが、最初の編者・施耐庵は、江蘇省興化県の生まれで、前述した張士誠(1321~1367年)の乱に参加した人だそうですから、元朝末期頃に活躍した人に違いなく、これを改編した羅貫中も、元朝末期から明朝初期の人で、『三国志演義』『隋唐志伝』『平妖伝』などの著者としても知られています。物語中の梁山泊に屯した宋江、盧俊義など108人の豪傑たちの活動についても、元朝の圧政と矛盾の実情を頭の中に据えながらまとめた筈です。元朝末期に活躍した群雄の素性は、いずれも、元朝の権力機構から放り出された南宋人の末裔達であり、まともな稼業についている者はなく、海賊・塩賊・海運業者・闇商人・還俗僧・浮浪人などでした。方国珍、劉福通、徐寿輝、郭子興、陳友諒、韓林児、朱元璋、明王珍などがまさにそれでした。塩賊や海賊の喧嘩では、簡単に相手を殺しているものの、棒術・拳法・小棍(節棍)・短剣などが良く使われたそうです。無法者が拳法の真似事を始めるようになったのは、女や博打で身を崩し、禅門から放り出された還俗僧が、一宿一飯の恩義の為、親分衆に教授したのが始まりです。『水滸伝』に登場する豪傑たちも、権力や金力を用いて、弱い正直者をいじめたりすると、いきなり拳骨で殴り倒し、蹴り飛ばし、掴んで投げ飛ばしたりします。『水滸伝』は小説にすぎませんが、108人の中には、実在の人物らしき者がいて、中国拳法の中にも、盧智深を流祖とする「酔拳・酔八仙拳・病魔状」があり、武用を流祖とする「玉環歩・鴛鴦腿」があり、燕青を流祖とする「燕青拳・八打八梏。秘宗拳・迷踪芸」があります。『水滸伝』があまりに有名になったので、庶民に人気のある英雄的な人物にあやかって名付けられたのでしょうが、物語中の宋江の屯した梁山泊は、山東省西部の黄河沿いにありますので、北宋の首都・開封に近く、元の首都・大都にも遠くなく、昔から拳法の盛んな土地柄でもあります。度々登場する拳法の場面は、その挿話が全く架空のものであったとしても、拳法の実技体験などをなくして書くことは出来なと思われる表現が多いのです。現在まで伝承されている技法名が見られるのもその貴重な証拠です。また拳法の文学的意味からも大変魅力的なものが多く、多くの読者を魅了します。
『拳は打つ南山の猛虎、脚は踢る北海の蒼竜』の一句は、『拳と脚』『打つと踢る』『南山と北海』『猛虎と蒼竜』という簡潔な対句の中に躍動感と拳法の歴史をも感じさせるのです。
(「格闘技の歴史」「中国拳法伝」参照)

『琉球伝・武備誌』エピソード㊴

江湖の世界を便宜的に10の範疇に分類すると、「刺客」、「遊侠」、「教祖」、「塩族」、「海賊」、「天地会」、「義和団」、「哥老会」、「匪賊」、「青幇」となり、いずれも中国武術史と強い繋がりを持っています。「教祖」については、「黄巾の乱」「紅巾の乱」「太平天国の乱」が有名です。今回は「塩賊」について記します。塩の密売商を中国では塩賊、あるいは塩梟、塩徒などと呼びます。中国の秘密結社と言えば、宗教結社や革命結社にばかり目が行きがちですが、実は塩賊もそれに負けず劣らず、中国史を見るうえで欠かすことのできない重要な秘密結社なのです。塩賊が勢力を持ちえた理由は、歴代王朝が度々塩の専売制をとったことにあります。専売制はとは、国がいったんすべての塩を買い上げ、特許商人にだけ売り渡す方法です。最初に実施されたのは前漢の武帝の時で、唐朝でも安史乱(755~763年)の最中に、深刻な財政難に対処する方策として採用されることになりました。専売制の採用は期待以上の成果を上げますが、国庫が潤ったのとは対照的に、一般庶民の受けた打撃は大きかったのです。あくなき利潤を求めて、販売価格を極端に吊り上げる商人もいたことから、塩を買えず、淡食という味付けの無い食事を余儀なくされる人々さえも現れました。しかし、塩は人間が生きていくうえで不可欠の栄養素です。勿論、取りすぎは良くありませんが、まったく取らないのはなおのこと悪いのです。終日、汗水たらして働く農民であれば、毎日の食事を塩なしで済ますわけにはいきませんでした。そこで、多くの人々は合法的な官塩(専売塩)に背を向けて、もっぱら非合法的な私塩(闇塩)に頼るようになりました。「上に政策あれば下に対策あり」という諺はまさにこういうことを言うのでしょう。一般庶民が塩賊に嫌悪感や恐怖感を抱くどころか逆に期待と尊敬を寄せたとしてもおかしくない状況が生じたのでした。一方、朝廷の側からすれば、塩賊はけしからぬ盗賊以外の何者でもありません。その為、次第に取り締まりが強化されていきました。けれども、いかに取り締まりが強まろうと、私塩が必要とされている限り、密売が止むはずもなく、検挙や討伐への対抗措置として、塩賊の側は武装の強化という手段を選びました。塩賊には「正義は我にあり」という思いを抱く任侠肌の男が多かったので、取り締まりが強まれば強まるほど、彼らの反骨精神が一層強固なものとなるのも自然の成り行きでした。やがてその中から、衆に担がれ反乱に立ち上がる者が現れるのでした。
(「格闘技の歴史」参照)

『琉球伝・武備誌』エピソード㊳

中国史上の英雄と言えば、誰しも思い浮かべるのは、王朝の創業時や難局にあたって活躍した皇帝、名将、名臣の類でしょう。しかし、それは朝廷中心の見方であって、別の物差しを使えば、全く違った英雄像が浮かび上がってきます。朝廷人士たちの世界=官界に対して、それ以外の、無位無官の庶民の世界を江湖の世界と言います。官界で尊ばれた精神が忠や礼といった縦の人間関係に基礎を置くものであったのに対して、江湖の世界で一番尊ばれたのは、どちらかといえば横の人間関係を重視する義や侠の精神でした。そして、その精神を身を以て示した任侠の徒とか義侠の士などと呼ばれ、時と場合によって広く人望を集めることがありました。任侠の徒はしばしば無法者と同義語に扱われ、朝廷からしてみれば好ましからぬ存在でした。にもかかわらず彼らに人望が集まったのはどうしてでしょう?任侠の徒、無法者が英雄視される例はどの国にも見られますが、中国ではそれがひときわ顕著だったように見受けられます。任侠の徒を中心に結社が結成され、やがてその結社が反乱を起こすという例も非常に多く、そうした江湖の世界に端を発する反乱の多さも中国史を他の歴史から際立たせる大きな特徴といっても良いでしょう。
元末の群雄割拠時代は、江湖の世界同士の争いでもありました。長江には、漢・呉・周の三国が並立していました。江州(九江)を首都とした漢は、その王が陳友諒で、金陵(南京)を首都とした呉の王は朱元璋で、後に天下を統一して、呉という国名を明に改めました(1368年)。下流の蘇州を首都とした周の王は張士誠でした。長江三王はいずれも微賤の出身でした。塩の密売者であった周王の張士誠が、それでも出身としてはましな方で、呉王の朱元璋は放浪の乞食僧の出身でした。漢王の陳友諒は漁戸の出身であり、もとは謝姓でしたが、陳家に入婿になったと言われています。
江西から湖北にかけて、徐寿輝が「天完国」皇帝と称していましたが、天完国の丞相と称していた倪文俊の下で、書記を務めていたのが陳友諒でした。倪文俊は皇帝徐寿輝を殺して、天完国を乗っ取ろうとしましたが、失敗して黄州に逃げました。その部下であった陳友諒は、やがて主人の倪文俊を殺し、さらに兵を進め、采石磯という場所で、天完国皇帝徐寿輝を攻め殺し、自ら大漢国皇帝と名乗りました。漢・呉・周の三者の激しい争奪戦で、勝ち残ったのは呉の朱元璋であり、陳友諒は戦死、張士誠は捕らわれて自殺しました。
(「中国任侠列伝」「戦国海商伝」参照)

『琉球伝・武備誌』エピソード㊲

朱元璋の肖像には、「厳粛で端正な顔立ちで、いかにも儒教の理想とする帝王らしい威徳をそなえたもの」と「満面あばたで馬のようにあごが発達し、見るから醜悪な人相をしている。」ものがあります。実像は後者に近く、前者は皇帝の権威を飾るために描かれたものです。 画像は2つの顔を持つ肖像画ですが、左の方が本人に近いと言われています。
朱元璋、明の始祖であり、初代皇帝。廟号は太祖。その治世の年号を取って、洪武帝と呼ばれます。また、生まれた頃の名は、朱重八といい、後に朱興宗と改名し、紅巾軍に参加する頃にさらに朱元璋と改名し、字を国瑞としました。元末の天暦元年(1328年)、濠州の鍾離(現在の安徽省鳳陽県)の貧農の家の末子に生まれます。伝承によると母親は夢の中で仙人から赤い玉を授かって妊娠し、朱重八が生まれると家全体が赤く光り輝き、近所の人々が火事であると勘違いして家の周りに集まってきたといいます。従兄弟も含めて八番目の子であったため、重八と名づけられました(もしくは排行でそのように呼ばれた)。元末の政治混乱に伴い飢饉・凶作が頻発しており、朱元璋の家族は食べるものも無く飢え死にしました(流行病で家族を失った説もある)。朱元璋だけは皇覚寺という寺に身を寄せ托鉢僧となり、淮河流域で勧進の旅を続けながら辛うじて生き延びましたが、ほとんど乞食同然の生活でした。中国はもとより全世界の帝王・王朝創始者の中でも最も悲惨な境遇から身を起こした人物といわれる所以です。全くの庶民から王朝を創業した皇帝として劉邦と並び称されることもありますが、一応は生活の安定した自作農の家に生まれ育った劉邦に対して朱元璋の貧苦は格別でした。ただし、劉邦は読み書きがほとんど出来なかったといわれますが、朱元璋は皇覚寺時代に最低限の教養は身につけていました。
至正11年(1351年)、白蓮教徒の集団が各地で反乱を起こし、紅巾の乱が勃発しました。この大乱により皇覚寺は焼け落ちてしまいました。朱重八は自分の将来を占ってみたところ、紅巾軍に参加することが大吉であると出たため、韓林児を教祖とする東系紅巾軍の一派として濠州で挙兵していた郭子興のもとに身を投じたといいます。朱重八は郭子興の下で頭角を現し、養女の馬氏を妻に貰いました。これが後の馬皇后です。朱重八が郭子興の軍に参加した時、最初は間諜と間違われ、殺されそうになりましたが、面構えが郭子興に気に入られて、幕下に入ったという逸話があります。朱重八は他の造反軍がただ食料欲しさに目の前の事しか考えないのに比べ、先のことを考えた行動をとりました。自分の出自を逆に活かして貧民の味方という立場を打ち出し、元軍の中の徴兵された農民たちを取り込んで勢力を増していきました。この時期、のちに功臣第一となる徐達や勇猛で知られる常遇春や後の謀臣・李善長と出会いました。朱元璋は李善長から「乱れた天下を治めるのは貴方である。そのためには同じ農民出身の劉邦の真似をすれば良い」と言われました。これ以降朱元璋の行動は劉邦を意識した逸話が多くなります。この頃から「呉国公」と称しました。
<江南の統一>
至正15年(1355年)に郭子興が死ぬと彼の軍は息子の郭天叙、郭子興の妻の弟・張天祐、そして朱元璋の3人に受け継がれました。しかし郭天叙と張天祐の2人は、元軍との戦いで戦死したため(朱元璋による陰謀との説もある)、朱元璋はそれらの軍を吸収し至正16年(1356年)、集慶路(現在の南京)を占領し、応天府と改めました。応天府を占領した朱元璋は長江下流の一大勢力となりました。朱元璋の名声は大いに高まり各地から劉基、宋濂ら名望家がやって来るようになりました。その頃、長江上流では西系紅巾よりのし上がってきた陳友諒が大漢国をうち立て、湖北から江西の一帯を支配していました。また非紅巾勢力の張士誠も蘇州を本拠に大勢力を築いていました。朱元璋を含めたこの3勢力で当時、中国で最も豊かであるといわれた江南の覇権を争うことになったのです。至正20年(1360年)、陳友諒は大軍を率いて応天府の目と鼻の先まで進軍し陣を敷いた。その上で張士誠に使者を送り、共に朱元璋を挟み撃ちにするよう促しました。応天府では投降、首都放棄を主張する者まで現れるほど混乱しましたが、劉基が「陳友諒との決戦あるのみ」を主張し、部下の偽りの降伏によって陳友諒の軍を竜湾に引きずり出し勝利することができました。至正23年(1363年)3月、陳友諒は前回の敗北を挽回すべく60万を号する大水軍を率いて南昌を攻撃し、7月、朱元璋も水軍を率いて救援に向かいました。これを鄱陽湖の戦いと言います。3日にわたる激戦の後、劉基の献策した火薬を用いた火計が当たり、漢の水軍の殲滅に成功し陳友諒自身も戦死しました。翌年に陳友諒の後を継いだ陳理が降伏し大漢国を滅ぼしました。至正24年(1364年)、朱元璋は呉王を名乗りました。同じ頃、張士誠も呉王を名乗っており、両者は江南の覇権をかけて激突しました。朱元璋は張士誠側の要地を一つ一つ確実に落としていきました。至正26年(1366年)に朱元璋は韓林児を応天府に呼び寄せましたが、その途中で韓林児は水死しました(朱元璋の部下に暗殺されたとも言われる)。これを機会に朱元璋は方針を大きく転換し白蓮教と縁を切り、逆に邪教として弾圧するようになりました。至正27年(1367年)、11ヶ月にもおよぶ包囲の末に張士誠を討ち、淮南、江南を統一しました。至正28年(1368年)正月、応天府(現在の南京)にて朱元璋は即位し、元号を洪武とし、国号を大明としました。
<北伐>
太祖は元に内紛を生じたのを好機と捉え、20万を越える大軍を竹馬の友である徐達に授け、ただちに北伐を行わせました。当時元軍の主力であるココ・テムルの軍は陝西で李思斉の軍と交戦中であり、中原の防備は手薄でした。北伐軍は快調に進撃し、山東、河南を次々に平定しました。元の順帝は抵抗を諦め首都大都を放棄して北方へ逃走したため、明軍は抵抗を受けることもなく洪武元年(1368年)の8月に大都を占領し、北平府と改称しました。元は漠北へ撤退し北元となりました。洪武4年(1371年)に紅巾の残党である四川の大夏国を滅ぼし、洪武14年(1381年)には段氏の雲南を平定し中国を統一しました。また北元を討つためモンゴルへ繰り返し出兵し、元の残党の多くを降らせることに成功しました。洪武20年(1387年)の遠征で北元最後の主力であったマンジュリア軍団を討ち、北元をほぼ壊滅させました。
<即位後の政策>
洪武帝は独裁権力の確立を目指し、中書省を廃止して六部を直属としました。また軍も皇帝直属とし、宦官の専横を抑えるために宦官は学問をしてはならないという布告を出しました。洪武帝は重農政策を打ち出し、大商人を弾圧して、大商人や大地主の財産を没収、荒地の開拓地への強制移住などを行いました。また、貨幣流通の掌握のために銀山の官有や銅銭・紙幣の発行、民間における銀の通貨としての使用を禁じました。一方で洪武13年(1380年)には不当な商税を廃して、生活必需品を扱うような零細な商人の保護も行っています。
重農政策のもと、洪武4年(1371年)には地方官の治績の評価に流民の定着と農地回復の度合いを加え、洪武14年(1381年)に全国一斉に魚鱗図冊(土地台帳)、賦役黄冊(戸籍台帳)を作り、里甲制(村落の自治的行政制度)・衛所制(兵農一致による軍事制度)を実施しました。洪武27年(1394年)には工部の官吏と国子監の学生を総動員して治水事業を一斉に行い、全国で49,007ヶ所の堤防を修繕したといいます。
<官吏、知識人の弾圧>
洪武14年(1381年)、文字の獄と呼ばれる大弾圧を行いました。「光」「禿」「僧」などの字を使っただけで、洪武帝が昔僧侶であったことをあてこすったとされて薛祥ら功臣が殺され、かつて洪武帝が盗賊まがいのことをしていたので、「盗」の字と同音の「道」、「僧」と音の近い「生」の字を使った者がそれだけで殺されました。洪武15年(1382年)には「空印事件」(「空印の案」とも)と呼ばれる官吏への残虐な懲罰を行いました。当時の地方官らの間では、ある種の文書作成の手間を省くため、先に承認印だけを押した用紙(空印)を用意しておき、それを利用して報告書を作成することが常態となっていたのですが、それに気付いた洪武帝は、印の管理者を全員死刑とし、他の関係者にも厳罰を下したのでした。鄭士利という地方官は、空印事件の関係者に冤罪の者が大勢いる旨を洪武帝に直訴したところ、かえって罪に処せられて労役に付かされました。洪武18年(1385年)には郭桓の案が起こります。これは、戸部侍郎の郭桓が不正経理を行ったとして死刑となった際、各布政使司の官吏も連座させられた事件で、殺されたものは数万にのぼったと言います。文人たちは戦々恐々とし、洪武帝から離れようとしましたがそれも許されず、文才のある者は官吏として半強制的に登用されました。官吏を選抜するための科挙は、本来は極めて難しい試験を課され、及第するためには何年も勉強しなければならなりませんでしたが、明代には試験の難易度が下がり、定型文(八股文)を修得するだけでよくなりました。これにより明の官吏の意識は低下し、事なかれ主義に走り、朝廷で目立つ行動を取ることを恐れるようになったのです。
<大粛清>
洪武帝は自分が老いるに従い、後の心配をするようになりました。皇太子に選ばれたのは長男の朱標でしたが、朱標は優しい性格で、洪武帝から見るとあまりにも甘すぎると感じられました。一連の粛清事件は、この後継者のことを心配したためとも言われています。洪武8年(1375年)には中書左丞相の胡惟庸が劉基を毒殺したと疑うようになりました。廖永忠も死を賜りました。洪武13年(1380年)には、胡惟庸の疑獄事件をきっかけとしてそれまでの功臣の大粛清を始めました。これは胡惟庸の獄と呼ばれ、胡惟庸らの誅殺により一旦は終結しました。この際、胡惟庸は隣国日本に通じたという容疑もかけられています。同年に宋濂も連座させられ、馬皇后のとりなしで刑一等を減ぜられて流刑となりましたが、翌年死にました。洪武17年(1384年)には李文忠が毒殺されました。洪武18年(1385年)に徐達が病死したが、これにも毒殺説があります。さらに胡惟庸の獄の10年後の洪武23年(1390年)、事件を再び蒸し返して李善長ら功臣の大粛清を行いました。自分の寿命が近づいたことを覚悟していたのか、前回よりもはるかに激しくなり、3万を越える人数が誅殺されたとされます。これでやっと粛清の嵐も収まったかと思われた洪武25年(1392年)、皇太子朱標が早世しました。洪武帝は朱標の子の朱允炆を皇太孫としましたが、幼い後継者に代わったことでさらに後事が心配になり、再び粛清を始めました。洪武26年(1393年)には藍玉が謀反を起こしたとして、一族もろとも殺されました。これは藍玉の獄と呼ばれ、先の胡惟庸の獄と合わせて胡藍事件とも言います。洪武27年(1394年)には潁国公の傅友徳と王弼が殺されました。傅友徳についてはなぜ殺されたのかが分からず、歴史家も理由を探すのに難儀していると言います。洪武28年(1395年)には宋国公の馮勝が殺されました。洪武29年(1396年)には監察御史の王朴、洪武30年(1397年)には欧陽倫が殺されました。洪武帝は死の間際まで功臣を殺し続け、洪武31年(1398年)に崩御しました。享年71(満69歳没)。南京玄武区紫金山南麓の明孝陵に葬られました。後を孫の朱允炆(建文帝)が継ぎました。
(ウィキペディア参照)

『琉球伝・武備誌』エピソード㊱

紅巾の乱(1351~1366年)は、中国元末期の1351年(至正11年)に起こった宗教的農民反乱です。白蓮教を紐帯とし、目印として紅い布を付けた事からこの名があります。反乱軍は紅巾賊または白蓮教徒が弥勒に焼香をするため香軍と呼ばれます。この大乱の中から明の太祖朱元璋が登場することとなるのです。
<元末の混乱>
元末にかけて華北の中心に白蓮教が勢力を拡大しました。本来は仏教の一派ですが世の混乱と共に次第に過激化し、あた「元王朝の打倒とユートピアの実現」を唱える反体制的な教団となり、1338年、1351年には反乱をおこすまでになりましたが、これらの反乱は小規模にとどまり官軍により鎮圧されていました。末期の元は権臣が皇帝を擁立し、その権臣と皇帝を別の権臣が殺し、新しい皇帝を擁立するという事を繰り返したため、政治は混乱し、統治能力を失っていました。この時期には凶作飢饉が頻発していましたが、天災というよりは政府が適切な処置を行わなかったことによる人災と言えます。
1348年、方国珍が浙江、福建で海賊を行い、元の輸送船を襲い始めました。隋唐時代からこの地域は中国全土の経済を支える重要な地域であったため、ここからの輸送が途絶えることは致命傷になり得ました。政府は討伐軍を送りましたが、元々草原の民族のモンゴルは海戦には弱く、討伐軍の司令官が捕虜になるという惨敗となりまし。これにより元朝の衰退ぶりが明らかとなり、反乱への気運が高まることになります。
<白蓮教徒の蜂起>
1351年、白蓮教の教祖韓山童は北宋徽宗の末裔を名乗り、河南で黄河の土木工事に従事していた人夫達を扇動して反乱を企てましたが、挙兵直前に発覚し韓山童は処刑されました。劉福通らは韓山童の息子韓林児を擁立して蜂起し、1355年には小明王とし、国号を宋、年号を龍鳳としました。さらに杜遵道を丞相、劉福通は平章となって、安徽の郭子興などが呼応しましたが、紅巾軍の本体である宋とは行動を別にして、それぞれが自らの勢力拡大を狙って割拠して、首領たちが白蓮教を信仰していたかも怪しまれます。またこれとは別に、湖北で僧侶彭栄玉に祭り上げられた徐寿輝がいち早く、1351年には皇帝を名乗っており、国号を天完、年号を治平としました。両者を区別するために前者を東系紅巾、後者を西系紅巾と呼ぶことがあります。一般に東系紅巾は騎兵、もしくは歩兵による戦いを得意とし、西系紅巾は水軍を中心とした戦いを得意とする傾向がありました。
<紅巾軍の解体>
1357年、宋は全軍を三路に分け、北伐を開始しました。毛貴率いる東路軍は一時、大都にせまり、関先生ら率いる中路軍は高麗の首都開城を一時占領したが李成桂らの反撃をうけたため、開城を捨て転進して上都を占領しました。この北伐は元朝側に軍の弱体化と激しい内部抗争があったため大した抵抗も受けず、一時は大いに成功を収めたかに見えましたが、やがて態勢を立て直した元軍の本格的な反撃が始まり、チャガン・テムル(察罕帖木児)、ボロト・テムル(孛羅帖木児)らによって北伐軍は大破され、さらに首都開封を失い急速に弱体化が進み、安徽省の安豊でのみ権威を保つようになりました。いっぽう西系紅巾は南下、西進して江南を押さえ、四川の明玉珍を宣撫してその勢力を広げ、東系紅巾をしのぐほどになりましたが、次第に内部抗争が激化、1360年に徐寿輝は部下の陳友諒に殺害され、明玉珍が独立したため事実上、西系紅巾は解体された。
郭子興の配下から朱元璋が勃興し、蘇州の張士誠に攻められた韓林児を保護しました。しかしその後の韓林児には実権は無く1366年に暗殺され、それと同時に朱元璋による白蓮教の禁教令が出されました。ここで実質的に紅巾の乱は終結し、以後は朱元璋による覇権確立の戦争となります。
紅巾軍は白蓮教団を母体としていましたが、実態は盗賊や流民の寄せ集めであり、統率、規律も不十分で暴徒と化して都市や村を荒らしまわる部隊も多かったようです。また「漢民族の復興とユートピアの実現」を説いてはいましたが、具体的な政策があったわけでもなく、漢人知識人層を失望させ彼らの協力を得られなかったことが、紅巾軍の衰退につながったと思われます。
(ウィキペディア参照)

『琉球伝・武備誌』エピソード㉟

モンゴル人は草原の民です。海流や海風の知識に乏しく、大型糧穀船や大型軍船の操舵法を知りませんから、こうした海運関係の仕事は、反モンゴル感情の強い江南人に頼らざるを得ませんでした。フビライ帝が二度にわたって決行した日本上陸作戦の失敗も、実は強制的に急造させた杜撰な船体と海風の動きに通じた江南人の意見を無視した結果ともいえます。
また、前述した様に元朝は南宋人に決して重要な仕事を任せようとしなかったので、海洋航海術に長じた江南人の方でも、元朝政府の仕事を引き受ける意思はなく、その様な仕事を強制されるくらいであれば、はるかに儲けの多い南海諸国との密貿易に精を出した方が良いと考えたのでした。いずれにせよ、元朝が崩壊したのは、闇商人(塩徒)、海運業者(糧穀船)、倭寇(海賊)などの無法者集団の活動を押えることが出来なかったことに起因しています。江南地方から起こった反乱やそれに伴う軍事戦闘力(私兵)の強大化は、これら無法者集団が中心になって広がっていきます。上級役人から末端の役人の世界に至るまで、贈収賄が日常茶飯事となり、不法を取り締まる意思も無ければ、その能力もないところまで追い込んでいったのも無法者一派の仕業でした。元朝の末期頃になれば海賊の親分衆に海賊船の取り締まりを委託し、糧穀運送業務を船主兼海賊に任せていたので、大都に入荷する糧穀は、いつも予定の半分にも満たない始末となり、そのため一般庶民は、何倍もする闇値に泣きながら、その日その日の飢えを凌がねばなりませんでした。
(「格闘技の歴史」参照)

『琉球伝・武備誌』エピソード㉞

当時のモンゴルは「孩幼」即ち嬰児や幼児以外の男性はすべて戦闘要員でした。『蒙鞭備録』の「軍政」の記載によれば、その騎兵は数十万に達していました。つまり、モンゴル帝国の成立には国民皆兵による大量動員と中央集権の集団戦法を用いて戦った勇猛果敢なモンゴル軍の戦闘力が大きく寄与していました。モンゴル帝国の成立過程において、アジア・ヨーロッパ世界に破壊と死がもたらされましたが、反面、世界の大半がモンゴル帝国の領内に組み込まれた結果、東西文化の交流は歴史上類例が無いほど活性化し、アジアの各地域、更には中原の漢族社会と遊牧民族の間における交流もまた盛んになりました。この様な社会状況は元代の武器及び武術に大きな影響を与え、中国の武術に新たな特色を付与することになりました。ところで、趙匡胤や岳飛が活躍した当時は、騎馬弓術戦が終わると、太刀・戟・鎗・鉄鞭などを操る白兵戦に移るものでしたが、元朝時代になると。弩弓の矢も通らぬ鉄製の鎧や兜が普及し、それに伴って、活動性に富んだ軽防具の騎馬合戦は姿を消し、騎馬戦用の武器も相手の兜や鎧を引っ掛けて落馬させる棹上形(三又槍)のものに変わってきました。モンゴル軍が用いた攻城用兵器には、投石砲(西域砲)・弩砲(矢射砲)・鎗弩砲(鎗射砲)・石油発火砲(火炎壺)・雲梯(高梯子)・撞壁車(破壁車)等がありました。これらの兵器の運搬や据付け作業は捕虜奴隷が行い、主力の騎兵部隊は、突撃戦や追撃戦のために温存されました。これに対して、南宋軍は良質馬に恵まれず優れた騎士の数も少なかったので、歩兵部隊を主力として戦う他なく、武器も旧来のものしか備えていませんでした。勿論、江南地方は河川や湖沼が多く、騎兵部隊が縦横に活動することは出来ませんでした。そこで、南宋軍は最も得意とする水軍を活用して、元軍の渡河作戦を妨害することに注力することになります。しかし、南宋水軍が健在なうちは何とか互角に戦えましたが、フビライが水軍の増強に乗り出し、長江の両岸を埋め尽くすほどの軍船を造り出してくると、これに対抗する力はなく、一度城を失ってしまえば、大型海洋戦に便乗して、海上に逃げ去る他に道が無くなってしまいました。南北に伸びる長大な海岸線は元朝を大いに悩ませることになります。大都(北京)の住民を養う糧食は、江南地方で集荷し、大型海船で運ぶ仕組みになっていましたが、沿岸航路は、海賊の餌食になり易く、港湾都市に設けられた寛倉も、常に盗賊たちの襲撃目標として狙われたのでした。
(「中国武術史」「格闘技の歴史」参照)

『琉球伝・武備誌』エピソード㉝

元朝は、世祖・フビライの大都城構築から、10代・順帝(在位1332~1370年)北奔するまで、その統治期間は100年にも満たないものでしたが、僅か100万人前後のモンゴル人によって、中国の全領域と7000万人の住民を支配する最初の異民族政権でした。元朝が行った統治方式の特徴は、種族別に4つの戸籍簿を作り、その籍によって、法体系に違いを着けたところにあります。つまり、支配階級となったモンゴル人の場合は、貴族・上級官僚の支配下に一般牧民(軍役・賦役を負う公民)を置いただけでしたが、被支配階級に転落した漢人・南人・色目人などの場合は、①民戸(農民:納税・労役負担者)②軍戸(軍役負担者)③匠戸(職人:納税・労役負担者)④站戸(伝馬・宿舎負担者)等に分けられました。ただ、南人には、反乱の恐れがあるところから軍役は付しませんでした。
4つに仕分けされた戸籍簿とは、①国族(モンゴル人・100万人)②色目人(トルコ族、チベット族、イラン族、ヨーロッパ族、・100万人)③漢人(金国の遺民・1000万人)④南人(南宋の遺民・6000万人)です。この様にして、軍役を外され、武器を取り上げられた南宋の軍人たちは、海運業の縄張りを作ったり、海賊や闇商人となったり、賊党を組んで官倉品を略奪する他に生きる道はなかったのです。拳法や棍法が正当な禅門を離れ、無頼漢の世界へ急速に発展する様になったのも、南人系の職業軍人を排除したことによるものでした。元朝の科挙の制が再開されたのは、8代任宗帝(在位・1311~1320年)の1313年の時でしたが、試験は3年に1回しか行われず。合格者は前術した一戸籍につき75人と定められ、モンゴル人や色目人に比べると南人の場合は60倍の難関を突破しなければならない計算であり、たとえ合格しても決して最上級官僚には成れませんでした。元朝時代に儒学(朱子学)が発達して、『三国志演義』や『水滸伝』の様な庶民小説が生まれ「山水画」や「人物画」などが進歩するのは、こうした圧政に対する反動として起こったものでした。しかし、意外にも元朝は宗教にだけは寛大さを示しました。
(「格闘技の歴史」参照)

『琉球伝・武備誌』エピソード㉜

13世紀中期、朝鮮半島の高麗(こうらい)を服属させた蒙古のフビライ・ハーンは、日本に対しても朝貢させ国交を結ぼうとして、高麗を仲介とし日本に使者を派遣しました。これは、蒙古が最大の目標とした南宋攻略の一環であったと考えられますが、そのほか、1227年(安貞1)と1263年(弘長3)に、日本の武士の来寇禁止を求める高麗の使者が来日したことがあり、そのことなどもフビライの日本への使者派遣の理由の一つといわれています。1266年(文永3)、蒙古使者黒的(こくてき)・殷弘(いんこう)、高麗使者宋君斐(そうくんひ)・金賛(きんさん)らがともに巨済島(きょさいとう)まで至りますが、風濤(ふうとう)の険阻を理由に引き揚げたのを第1回とし、1273年趙良弼(ちょうりょうひつ)の再度の来日に至るまで、前後6回にわたる使者が派遣されました。1268年の第2回には、高麗使潘阜(はんぷ)一行が蒙古の国書をもたらしましたが、日本はこれを侵略の先触れとして受け取り、異国降伏の祈祷(きとう)を寺社に命ずる一方、西国とくに九州の防備体制を固めるなど、国内はにわかに緊張に包まれました。1274年(文永11)10月3日、蒙古・高麗の兵約28,000よりなる征日本軍は、忻都(きんと)、洪茶丘(こうちゃきゅう)らに率いられて合浦(がっぽ)(慶尚南道馬山(ばさん))を出発。10月5日、対馬(つしま)に上陸。このとき、対馬守護代(しゅごだい)の宗助国(そうすけくに)以下が防戦のすえ戦死しました。10月14日、壱岐(いき)が襲われ、守護代平景隆(たいらのかげたか)以下が戦死。対馬・壱岐2島の百姓らは、男はあるいは殺されあるいは捕らえられ、女は1か所に集められ、数珠(じゅず)つなぎにして舷側(げんそく)に結び付けられるなどの残虐な行為を受けたと言います。10月20日、元軍は、博多湾(はかたわん)西部の今津(いまづ)―百道原(ももじばる)などに上陸し、麁原(そはら)、鳥飼(とりかい)、別府(べふ)、赤坂(いずれも福岡市内)と激戦が展開されました。日本軍は少弐経資(しょうにつねすけ)、大友頼泰(おおともよりやす)の指揮のもとに、経資の弟景資(かげすけ)が前線の指揮をとり応戦しましたが、石火矢(いしびや)を使う蒙古の集団戦法に大いに苦戦しました。最終的な勝敗が決せぬまま、同夜、蒙古軍は撤退を開始しましたが、さいわいにもいわゆる「神風」なる大暴風雨が吹き荒れ、蒙古の兵船は壊滅的打撃を受けた。未帰還者13,500余人といわれています。
日本遠征の失敗のあと、フビライは、高麗の再征中止の勧めにもかかわらず、南宋への最終的攻撃を進めるとともに、日本再征の準備を整えていきました。1275年(建治1)4月、蒙古使者杜世忠(とせいちゅう)・何文著(かぶんちょ)が長門(ながと)室津(むろつ)に到着。使者一行は鎌倉へ送られ竜口(たつのくち)にて斬首(ざんしゅ)されました。1279年(弘安2)6月にも、再度蒙古よりの使節一行が博多に到着しましたが、今回は鎌倉に上らすこともなく博多において斬(き)らせるなど、幕府は厳しい態度を示しました。同年、蒙古は南宋を完全に滅ぼし中国全土の支配者となり、日本再征は日程の問題となった。一方、日本では、文永の役が終わると、幕府は同役の論功行賞を行い、蒙古の再襲に備えて防備体制(異国警固番役(いこくけいごばんやく))を強化しました。博多湾沿岸の防備は、九州内各国がそれぞれ分担して順次番役を勤めるという制規が定められ、金沢実政(かねさわさねまさ)が防衛の指揮をとるため幕府より差し遣わされました。また長門の警備も強化され、これには長門、周防(すおう)、安芸(あき)(のち備後(びんご)も加わる)の勢をもって防衛すべき旨が定められました。また積極的に日本から元の遠征基地である高麗へ征戦する「異国征伐(せいばつ)」も企てられ、そのための船舶、水主(かこ)などの動員も行われましたが、実現には至りませんでした。1276年(建治2)3月よりは、博多湾沿岸の香椎(かしい)から今津に至る20キロメートルの地帯に石築地(いしついじ)(元寇防塁(ぼうるい))を築くことなども始められました。これは御家人(ごけにん)だけでなく、所領の広さに応じて一般荘園(しょうえん)公領にも賦課されたものでした。
元の第2回の日本遠征軍は、金方慶(きんほうけい)、忻都、洪茶丘の率いる蒙・漢・麗合同軍40,000の東路軍と、范文虎(はんぶんこ)の率いる旧南宋軍100,000の江南軍とからなっていました。1281年(弘安4)5月3日、東路軍は合浦を出発。対馬・壱岐を経て、一部は長門を侵攻。主力は6月6日、志賀島(しかのしま)(福岡市)に来襲し、同海上および陸上の一部で交戦。肥後の竹崎季長(たけざきすえなが)、伊予(いよ)の河野通有(こうのみちあり)らが小舟に乗り、元の大船に切り込みをかけ武名をあげたのもこのときでした。このように東路軍が九州本土への上陸拠点とした志賀島も、日本軍の猛攻にあい上陸侵攻を阻まれ、壱岐から肥前の鷹島(たかしま)へと退きました。一方、江南軍は主将の更迭などで発船が遅れ、6月18日に慶元(寧波(ニンポー))を出発。平戸島(ひらどしま)付近で東路軍と合流し、一挙に博多湾に押し入るべく、7月27日鷹島に移動しました。これを探知した日本軍は、大挙して鷹島の敵船に猛攻を開始しました。ところが7月30日夜から暴風が吹き荒れ、翌閏(うるう)7月1日、蒙古軍はほぼ壊滅しました。主将范文虎は士卒100,000余を捨てて帰還し、残された士卒らは日本軍によりことごとく殺害、捕虜とされたと言います。元軍の帰らざる者は約100,000、高麗軍の帰らざる者7000余人と高麗の記録は伝えています。
フビライは以後も日本遠征を断念せず準備を進めました。中国南方やベトナムの反乱があったにもかかわらず、出兵計画を具体化していきましたが、1294年(永仁2)彼の死とともにその計画は立ち消えとなり、フビライの後を継いだ成宗が、1299年(正安1)禅僧一山一寧(いっさんいちねい)を日本へ派遣して交渉を試みたのを最後に、元は日本との交渉を完全に断念しました。一方日本では、異国警固番役は依然継続され、漸次弛緩(しかん)してはいったものの、防備体制は幕府倒壊までともかくも維持されました。九州の御家人たちは、蒙古襲来以前は、訴訟のとき鎌倉や京都六波羅(ろくはら)に参訴していましたが、訴訟のため所領を離れて番役をおろそかにすることを案じた幕府は、九州独自の裁判機関を設けました。1284年(弘安7)の特殊合議制訴訟機関、1286年鎮西談議所(ちんぜいだんぎしょ)を経て、いわゆる鎮西探題が成立しました。また蒙古襲来を機に、九州各国守護職の北条氏一門への集中化が図られ、その九州支配は強化されました。また異国警固番役の勤仕を通じて、庶子(しょし)が惣領(そうりょう)の統制を離れて別個に番役を勤仕する傾向が強くなり、庶子の独立化が進みました。これは、幕府の存立基盤である惣領制の解体を促進する一因となりました。戦後の恩賞配分も十分でなく参戦者の要求を満たすことができず、加えて、継続的な防衛のための経済的諸負担は御家人の窮乏に拍車をかける結果となりました。九州の御家人たちを異国警固に専心させる目的で設置された鎮西探題は、北条氏の専制的九州支配の機関としての性質をあらわにして、九州御家人たちの支持を失い、鎌倉北条氏と運命をともにして、1333年(元弘3・正慶2)5月、滅亡しました。鎌倉幕府体制の有していた諸矛盾は、蒙古襲来を契機として顕在化し、悪党(あくとう)とよばれる人々の出現に象徴される御家人体制の動揺のなかで、ついには幕府の倒壊をみるに至ったのです。なお、蒙古襲来を契機に大社寺は一斉に戦勝祈願に専念し、幕府が戦後これに対する報賽(ほうさい)の意味で寺社保護政策を推し進めたことと、いわゆる「神風」が直接的に戦勝に導いたことなどから、以後神国思想が広範に流布していきました。
(「日本大百科全書」参照)

『琉球伝・武備誌』エピソード㉛

元寇と呼ばれる蒙古(モンゴル)軍の襲来は日本史上の重大事件であって、その影響するところは極めて大きいのですが、高麗が蒙古から受けた打撃は日本の場合とは比較できないぐらい猛烈なものでした。高麗は10世紀以来、契丹(遼)や女真(金)等の北方の勢力の圧迫を受け続けてきましたが、蒙古の侵略は、これらよりも更に大きく激しいものでした。蒙古は太祖チンギス・ハーンの後を継いだ太宗オゴタイ・ハーンの3年、即ち1231年(高麗高宗十八年)に高麗に初めて出兵しましたが、以後30年に渡って蒙古軍は高麗の山野を制圧しました。高麗では、国初以来300年に渡って首都であった開京を捨て、都を海上の江華島に移し、崔氏の武臣政権が実権を握って蒙古に対して激しい抵抗を続けました。蒙古の侵入は、1231年・1235~1239年・1247~1248年・1253~1254年と執拗に繰り返され、高麗王高宗はついに江華島を出て蒙古の使者を迎え、王子を蒙古に送ったのでやがて蒙古軍も朝鮮半島から撤収しました。しかし、蒙古軍は口実を設けて侵入を再開し、1254年に高麗に侵入した蒙古軍は男女を問わず206,800余人を捕らえ、多くの高麗人を殺し、その通過地区は灰燼に帰したと言います。ついで、1255年・1257年・1258年の侵寇があり、1259年に高麗では太子倎を蒙古に送り、開京への遷都を約束して降伏しました。蒙古では1260年に世祖フビライ・ハーンが即位し、高麗に対する政策を武力制圧策から平和的な懐柔策に改め、高麗を蒙古の陣営に加えて日本遠征の一翼を担わせることにしました。蒙古と高麗の連合軍による日本遠征(文永・弘安の役)が決行された時期は、高麗の元宗・忠烈王の時代でした。
(「倭寇(海の歴史)」参照)

『琉球伝・武備誌』エピソード㉚

フビライ・ハーン(1215年9月23日~1294年2月18日)は、大元王朝の初代皇帝、モンゴル帝国の第5代皇帝(大ハーン)。
その即位にあたる内紛からモンゴル帝国は皇帝であるハーンを頂点とする緩やかな連合体となり解体が進みました。これに対してフビライは、はじめて国号を「大元」と定め、帝国の中心をモンゴル高原のカラコルムから中国の大都(現在の北京)に移動させるなど様々な改革を打ち出しました。フビライの代以降、ハーンの直接支配領域はモンゴル帝国のうち中国を中心に東アジアを支配する大元ウルス(大元大蒙古国)に変貌しました。
1215年にチンギス・ハーンの四男トルイの子として生まれました。母はケレイト部族出身のトルイの正夫人ソルコクタニ・ベキで、トルイがソルコクタニとの間に設けた4人の嫡出子のうちの次男にあたり、兄に第4代皇帝となったモンケ、弟にイルハン朝を開いたフレグ、フビライとモンゴル皇帝(ハーン)位を争ったアリクブケがいる。青年時代の事歴についてはほとんど知られていません。
1251年に兄モンケがハーンの座に就くと、ゴビ砂漠以南の南モンゴル高原・華北における諸軍の指揮権を与えられ、中国方面の領土の征服を委ねられました。1252年には自身が所領とする京兆(唐の長安、現在の西安)を中心とする陝西を出発して雲南への遠征(→雲南・大理遠征)に出発、南宋領を避けてチベットの東部を迂回する難行軍の末に翌1253年に雲南を支配する大理国を降伏させました。
<ドロン・ノールでの謹慎>
雲南からの帰還後は金の旧都である中都(現在の北京)の北、南モンゴル(現在の内モンゴル自治区)中部のドロン・ノール(中国語版、英語版)に幕営(オルド)を移し、後方から江南の南宋および朝鮮半島の高麗征服(→ジャラルダイの第六次高麗侵攻、1253 ~ 1258年)の総指揮を取りました。フビライは後方のドロン・ノールに腰を据えて動かず、ここに遊牧宮廷の補給基地となる都城の開平府(後の上都)を築き、姚枢ら漢人のブレーンを登用して中国を安定して支配する道を模索しました。
しかし、アラムダル(阿藍答児)によるフビライ派への調査を受けて、1256年にモンケは不満を持つフビライを南宋作戦の責任者から更迭し、南宋への戦線を東方三王家筆頭でテムゲ・オッチギンの孫タガチャルにまかせたがすぐに撤退してしまった為、モンケ自らの陣頭指揮により行うことを決しました。南宋を早急に併合することを望むモンケは、1258年に自ら陝西に入って親征を開始し、河南から四川の南宋領を転戦しましたが、翌1259年の釣魚城(現重慶市合川)攻略中に、軍中で流行した疫病(赤痢)に罹って病死しました。
<ハーン位をめぐる争い>
モンケの急死により、その年若い息子達にかわって3人の弟達が後継者となる可能性が生じました。アリクブケはこのとき首都カラコルムにおいてモンケの留守を守っており、モンケの重臣達やモンゴル高原以西の諸王・諸部族はアリクブケの支持に回ったので、アリクブケが有力な後継者候補に立ちました。一方のフビライは、モンケが死んだとき中軍が北帰して取り残されて長江の中流域で転戦していたウリヤンカダイを救出したことから、前線の中国に駐留する諸軍団やモンゴル高原東部のモンゴル貴族、王族を味方につけることになりました。1260年、クビライの本拠地、金蓮川でフビライ支持派によるクリルタイが開かれ、フビライのハーン即位を一方的に宣言しました。5月にはアリクブケもこれに対抗してハーン即位を宣言し、モンゴル帝国はフビライとアリクブケの2人のハーンが並び立つ帝国の南北分裂に発展しました。
三弟のフレグは遠くイランにおいて西アジアの征服事業を進めていたため、皇帝位を巡る争いは次弟のフビライと末弟のアリクブケが当事者となりました。この内紛では精強な東部の諸部族を味方につけたフビライ側が緒戦のシトム・ノールの戦いに勝利し、早々に華北と高原の大半を制覇しました。一方のアリクブケは高原北西部のオイラト部族の援助を受けて一時は高原中央部のカラコルムを取り戻しますが、中国農耕地帯の豊かな物資を背景にフビライが行った経済封鎖によって自給のできないカラコルムはたちまち危機に陥いりました。1264年、アリクブケは降伏し、クビライが単独の皇帝となったのです。
<新国家の形成>
1260年に即位したフビライは、モンゴル王朝で初めての中国風の元号(中統)を立て、漢人官僚を集めた行政府である中書省を新設しました。中書省には六部が置かれて旧来の尚書省の機能を兼ねさせ、華北の庶政を取り仕切る最高行政機関としました。続いて軍政を司る枢密院、監察を司る御史台などの諸機関が相次いで設置されて、中国式の政府機関が一通り整備されました。紙幣として諸路通行中統元宝交鈔を発行して、それまで他のモンゴルや漢人の諸侯も発行していた通貨を統一しました。
アリクブケとの内紛の最中の中統3年(1262年)には山東を支配する漢人軍閥が反乱を起こし窮地に陥りますが、これを鎮圧したフビライは反乱をきっかけとして、華北の各地を支配していた在地軍閥を解体させました。これによりモンゴル皇帝であるハーンと皇族、モンゴル貴族、そして在地領主の間で錯綜していた華北の在地支配関係が整理され、地方には路・州・県の三階層の行政区が置かれた。至元4年(1267年)からは中都の郊外に中国式の方形様式を取り入れた都城大都の建造を開始、至元8年11月乙亥(1271年12月18日)に国号は漢語で「大元」と改められました。
<外征と内乱>
軍事的には、アリクブケの乱以来、中央アジアのオゴデイ家とチャガタイ家がハーンの権威から離れ、本来はハーンの直轄領であった中央アジアのオアシス地帯を横領、さらにフビライに従う甘粛方面の諸王や天山ウイグル王国を圧迫し始めたので、多方面からの対応が必要となりました。そこで、フビライは夫人チャブイとの間に設けた3人の嫡子チンキム、マンガラ、ノムガンをそれぞれ燕王、安西王、北平王に任じて方面ごとの軍隊を統括させ、独立性をもたせて事態にあたらせました。安西王マンガラはフビライの旧領京兆を中心に中国の西部を、北平王ノムガンは帝国の旧都カラコルムを中心にモンゴル高原をそれぞれ担当し、燕王チンキムには中書令兼枢密使として華北および南モンゴルに広がる元の中央部分の政治と軍事を統括させて、フビライは3子率いる3大軍団の上に君臨しました。
至元13年(1276年)には将軍バヤン率いる大軍が南宋の都臨安を占領、南宋を実質上滅亡させその領土の大半を征服しました(モンゴル・南宋戦争)。この前後にフビライはアフマドやサイイドらムスリム(イスラム教徒)の財務官僚を登用し、専売や商業税を充実させ、運河を整備して、中国南部や貿易からもたらされる富が大都に集積されるシステムを作り上げ、帝国の経済的な発展をもたらしました。これにともなって東西交通が盛んになり、フビライ治下の中国にはヴェネツィア出身の商人マルコ・ポーロら多くの西方の人々(色目人)が訪れました。
中国の外では、治世の初期から服属していた高麗で起こった三別抄の反乱を鎮圧した後、13世紀末には事実上滅亡させ、傀儡政権として王女クトゥルク=ケルミシュを降嫁させた王太子王賰の王統を立て朝鮮半島支配を確立しました。また至元24年(1287年)にはビルマのパガン王朝を事実上滅亡させ(→モンゴルのビルマ侵攻)、傀儡政権を樹立して一時的に東南アジアまで勢力を広げた。しかし、日本への2度の侵攻(元寇)や、樺太アイヌ(→モンゴルの樺太侵攻)、ベトナムの陳朝やチャンパ王国(→モンゴルのヴェトナム侵攻)、ジャワ島のマジャパヒト王国(→モンゴルのジャワ侵攻)などへの遠征は現地勢力の激しい抵抗を受け敗退しました。
モンゴルの同族が支配する中央アジアに対しては、至元12年(1275年)にモンゴル高原を支配する四男の北平王ノムガンがチャガタイ家の首都アルマリクを占領することに成功しましたが、翌年モンケの遺児シリギをはじめとするモンケ家、アリクブケ家、コルゲン家など、ノムガンの軍に従軍していた王族たちが反乱を起こしました。司令官ノムガンは捕らえられてその軍は崩壊し、これをきっかけにオゴデイ家のカイドゥが中央アジアの諸王家を統合して公然とクビライに対抗し始めました。
クビライは南宋征服の功臣バヤン率いる大軍をモンゴル高原に振り向けカイドゥを防がせましたが、至元24年(1287年)には即位時の支持母体であった高原東方の諸王家がオッチギン家の当主ナヤンを指導者として叛きました。老齢のフビライ自身がキプチャクやアス、カンクリの諸部族からなる侍衛親軍を率いて親征し、遼河での両軍の会戦で勝利しました。ナヤンは捕縛・処刑され、諸王家の当主たちも降伏してようやく鎮圧しました。フビライは東方三王家であるジョチ・カサル家、カチウン家、テムゲ・オッチギン家の当主たちを全て挿げ替えました。カイドゥはこの混乱をみてモンゴル高原への進出を狙いましたが、フビライは翌年ただちにカラコルムへ進駐し、カイドゥ軍を撤退させました。カチウン家の王族カダアンがなおも抵抗し、各地で転戦して高麗へ落ち延びてこの地域を劫掠したが、至元29年(1292年)に皇孫テムルが派遣されて元朝と高麗連合軍によってカダアンを破り、カダアンを敗死させてようやく東方の混乱は収束しました(ナヤン・カダアンの乱)。
<晩年>
フビライの政権が長期化すると、行政機関である中書省と軍政機関の枢密院を支配して中央政府の実権を握る燕王チンキムの権勢が増し、至元10年(1273年)に皇太子に冊立されました。一方、アフマドも南宋の征服を経て華北と江南の各地で活動する財務官僚に自身の党派に属する者を配置したので、その権力は絶大となり、やがて皇太子チンキムの党派とアフマドの党派による反目が表面化しました。対立が頂点に達した至元19年(1282年)、アフマドはチンキムの党派に属する漢人官僚によって暗殺されました。この事件の後アフマドの遺族も失脚し、政争はチンキム派が最終的な勝利を収めました。これにより皇太子チンキムの権勢を阻む勢力はいなくなり、フビライに対してチンキムへの譲位を建言する者すら現われたが、チンキムは至元22年(1285年)に病死してしまったのです。
一方、カイドゥのモンゴル高原に対する攻撃はますます厳しくなり、元軍は敗北を重ねました。外征を支えるためにフビライが整備に心血を注いだ財政も、アフマドの死後は度重なる外征と内乱によって悪化する一方でした。至元24年(1287年)に財政再建の期待を担って登用されたウイグル人財務官僚サンガも至元28年(1291年)には失脚させられ、フビライの末年には元は外征と財政難に追われて日本への3度目の遠征計画も放棄せざるを得なかったのです。 至元30年(1293年)、クビライは高原の総司令官バヤンを召還し、チンキムの子である皇太孫テムルに皇太子の印璽を授けて元軍の総司令官として送り出しましたが、それからまもなく翌至元31年(1294年)2月18日に大都宮城の紫檀殿で病没しました。遺骸は祖父チンギス以来歴代モンゴル皇帝と王族たちの墓所であるモンゴル高原の起輦谷へ葬られました。同年5月10日、フビライの後継者となっていた皇太孫テムルが上都で即位しますが、その治下でカイドゥの乱は収まり、フビライの即位以来続いたモンゴル帝国の内紛はようやく終息をみることになりました。
(ウィキペディア参照)

『琉球伝・武備誌』エピソード㉙

モンゴル帝国を興したテムジン(鉄木真・1162~1227年)モンゴル族のボルジギン部の出身で、初めてモンゴル人王国を開いた英雄、ハブル・ハーン四世の孫です。テムジンは色々な苦労を重ねた末、ケレイト部の頭領・ワンカンの援助によって、部族の頭領となったのは26歳の時でした。当時モンゴル草原の勢力図を見ると、北のセレンゲ河畔にはメルキト族、南の陰山山脈方面にはオングート族、西のアルタイ山脈からエニセイ河下流にはナイマン族、中央草原地帯にはケレイト族、興安嶺東部にはタタール族がいて、それぞれの領域を支配する王国を築いていました。テムジンはこれらの対抗勢力を次々と打ち破り、1204年5月、最大の勢力を誇っていたナイマン部の頭領・タヤン・ハンと戦って勝利をおさめ、遂に全モンゴル部族の統一権者となりました。オノン河畔で即位式をあげ、チンギス・ハーンと称したのは、その2年後でした。モンゴル部族の統合に成功したチンギス・ハーンは、まず、西夏とウイグルを侵して、その富を奪い取り、1214年3月には、ハブル・ハーンを謀殺した宿敵、金に侵入して、一度は和平懇願に応じて兵を引いたものの、金が首都を燕京(北京)から、開封へ移したと知るや、再び兵を起こして、燕京に攻め入り、これを占領してしまいました。チンギス・ハーンの率いるモンゴル族の大騎馬軍団が、中央アジアの大雄国、ホラズム討伐に出撃するのは1219年6月ですが、忽ちのうちにオトラル、サマルカンド、ブハラなどの諸都市を破壊し、更にウルゲンジ、バルク、ヘラート、メルブ、ニシャプールを焼き払い、西方に逃げるムハンマド王を黒海北岸の孤島に追い込んで窮死させ、モンゴル軍の一部隊を撃破したホラズムの勇将・ジェラル・ウッディンを迫撃して、これをインダス河畔に破り、足掛け7年振りに凱旋帰国します。しかし、休む間もなく西夏討伐の軍を進め、1227年6月、首都の興慶府(寧夏)を陥して、国王を処刑したものの、自らも南方性熱病に冒され、陝西省の本営幕舎でその生涯を閉じました。
(「格闘技の歴史」、ウィキペディア参照)

『琉球伝・武備誌』エピソード㉘

918年に王建(太祖)が高麗(918~1392年)を建国し、936年に朝鮮半島の後三国を統一しました。926年に遼(916年成立)が渤海を滅ぼし高麗と北方で国境を接しました。一方、中国大陸の戦乱(五代十国)が宋(960年建国)によって統一されましたが、北方の周辺異民族を制する力はなく、契丹は急速に高麗との国境まで版図を広げ、さらに993年から大規模な侵入を行いました。高麗はこれに屈し、契丹の属国となる事を誓って赦され、994年から連年朝貢しました。1009年に高麗で王が弑逆される政変が起きると、1010年、契丹は不義を正すという名目で介入し、北部諸州を征服した後、首都開城へ迫りました。高麗朝廷は将軍・姜邯賛の策により開城を放棄して羅州へ立て篭もるも、契丹軍が1011年1月に開城を攻略すると和を乞うて降伏、契丹軍は開城を焼き払い撤退しました。高麗が再び盟約に違反した為、契丹は1013年から1015年まで継続して侵入し、高麗軍は度々破れ大きな損失を被っています。契丹はその年のうちに再再度侵攻しました。1016年、高麗が再び宋の藩属国に戻って契丹に背くと、1018年、蕭排押率いる10万の契丹軍が高麗へ攻め込みますが、姜邯賛率いる高麗軍20万は、契丹軍の分隊を鴨緑江支流河岸にある亀城で迎え撃ち撃退しました。侵攻は1019年まで続いましたが、高麗は最終的にこれを撃退しました。契丹軍の侵攻は、高麗が請願によって女真族の土地である江東6州の権利を下賜されていながら度々背いた故でした。遼の聖宗は、蕭排押の敗戦を受けて本格的な高麗征伐を準備していましたが、高麗からの「藩属国となり毎年朝貢を怠らない」旨の謝罪を受け容れ、1020年降伏による和睦を許しました。1022年以降、高麗は契丹の年号を用いて朝貢の義務を果たし、契丹が高麗の江東6州領有を許した事で、高麗は鴨緑江沿いの女真族の土地を占領しました。その後、北東地域では女真との戦いが続きました。女真が居住していた江東6州への侵略に際して女真族の抵抗に遭った為、1033年から1044年にかけて北部に半島を横断する長城を築いて報復に備えました。1037年に女真水軍が長城の及ばない鴨緑江を侵しましたが、この後はおおむね安定を取り戻しました。この後の女真の台頭は著しく、1104年の反撃では女真軍に敗れ略奪を受けています。女真は1115年に金を建て、1125年に高麗の宗主国である遼を滅ぼしました。その為高麗は金へ服属し、翌1126年に朝貢しました。金は中華帝国となるべく、宋への介入に集中したため、高麗は属国でありながらもそれほど政治介入を受けずに済みました。国内はおおむね安定し、1145年には現存最古の朝鮮半島史書である三国史記が完成しました。これら中国における宋の歴史と朝鮮における百済・新羅・後高句麗の後三国時代や高麗における歴史から読み解かれるのが、共通の宿敵である遼国や女真族の金国への軍事的な対抗策として、中国と朝鮮半島において「弓術」「槍術」「腿撃法・弾腿法」が練武され、日本でも源氏や平氏という武家の棟梁たちによって武士団が形成され、それらの武術が独自の発達をしたことが推察されます。私には趙匡胤や岳飛と源為朝たちが、顔貌や身体的特徴と戦闘方法において共通点を見出すことが出来ます。この後、中国・朝鮮半島・日本のいずれもがモンゴル帝国という最強の騎馬軍団との戦いに突入していくのです。

『琉球伝・武備誌』エピソード㉗

治承・寿永の乱は、平安時代末期の治承4年(1180年)から元暦2年(1185年)にかけての6年間に渡る大規模な内乱です。後白河天皇の皇子である以仁王による挙兵を契機に各地で平清盛を中心とする六波羅政権ともよばれる平氏政権に対する反乱が起こります。最終的には、反乱勢力同士の対立がありつつも平氏政権の崩壊により源頼朝を中心とした主に坂東平氏から構成される関東政権(鎌倉幕府)の樹立という結果に至ります。話を遡り源氏と平氏のルーツを見てみましょう。平氏の祖は第50代の桓武天皇(736~806年)です。『白壁王(のちの光仁天皇)の第1王子として天平9年(737年)に産まれた。生母は百済武寧王を祖とする渡来人末裔和氏(やまとうじ)の高野新笠である。当初は官僚として勤め、大学頭や侍従に任じられた(光仁天皇即位以前は山部王と称された。』とあるように、「百済系の天皇」であることは解ります。一方、第56代の清和天皇は源氏の祖とされていますが、いずれも、皇子が関東地方に居住する朝鮮系の人を「武士団」として結集し、その棟梁となったそうです。そのときに、平氏は百済系が結集し、源氏は新羅系が結集しました。平氏も百済人も赤をシンボルとし、源氏も新羅も白色をシンボルとしています。源氏の中には源義光(1045~1127年)がおり、義光は河内源氏の2代目棟梁である源頼義の三男で、兄に源義家(八幡太郎)と源義綱(賀茂次郎)がいます。近江国の新羅明神(大津三井寺新羅善神堂)で元服したことから新羅三郎と呼ばれます。義光は弓馬の術にたけ、音律をよくしたという伝説があります。因みに古武道の大東流合気柔術では、義光を開祖としています。また、流鏑馬に代表される弓馬軍礼故実である弓術、馬術、礼法の流派である小笠原流や武田流などは、古の武家の心と形をいまに伝えています。そして義光を甲斐源氏の祖とする武田氏の嫡流に伝わった盾無鎧や、南部氏が今に伝えた菊一文字の鎧などにもそれは見られます。源平合戦とは実に百済系と新羅系の戦いであったとも言われます。後三国時代(892~936年)は、朝鮮史の時代区分の一つであり、892年に農民の甄萱が挙兵し、新羅王族の弓裔が泰封を建国することによって弱体化していた新羅が分裂してから、936年に高麗が朝鮮半島を再統一するまでの期間を言います。中国でも五代十国時代(907~960年)は、中国の唐の滅亡から北宋の成立までの間に黄河流域を中心とした華北を統治した5つの王朝(五代)と、華中・華南と華北の一部を支配した諸地方政権(十国)とが興亡した時代です。つまり遊牧系騎馬民族との戦いの最中に宋朝が誕生し、金国に追われた南宋が成立した岳飛の時代と義家や義光、為朝といった源氏の名将たちが活躍する時代とが重なっているのです。
(ウィキペディア参照)

『琉球伝・武備誌』エピソード㉖

<為朝の琉球伝説>
琉球王国の正史『中山世鑑』や『おもろさうし』、『鎮西琉球記』、『椿説弓張月』などでは、このとき源為朝が琉球へ逃れ、その子が初代琉球王舜天になったとしています。来琉の真偽は不明ですが、正史として扱われており、この話がのちに曲亭馬琴の『椿説弓張月』を産みました。日琉同祖論と関連づけて語られる事が多く、尚氏の権威付けのために創作された伝説とも考えられています。この伝承に基づき、大正11年(1922年)には為朝上陸の碑が建てられました。表側に「源為朝公上陸之趾」と刻まれており、その左斜め下にはこの碑を建てることに尽力した東郷平八郎の名が刻まれています。
<琉球と八幡信仰>
為朝の琉球伝説にはそれなりの理由があります。源氏の守護神は言うまでもなく八幡神です。八幡神は菩薩号を付して八幡大菩薩と呼ぶこともあります。八幡神を彦火火出見(ひこほほでみ)尊とする説もありますが,普通は応神天皇、比売(ひめ)神、神功皇后の3神とします。応神天皇は、4世紀末から5世紀初頭に実在性が濃厚な最古の第15代大王(天皇)とも言われ、百済人との説もあります。神功皇后(『日本書紀』などによれば、神功元年から神功69年まで政事を執り行ないました。夫の仲哀天皇が香椎宮にて急死(『天書紀』では熊襲の矢が当たったという)。その後に熊襲を討伐しました。それから住吉大神の神託により、お腹に子供(のちの応神天皇)を妊娠したまま筑紫から玄界灘を渡り朝鮮半島に出兵して新羅の国を攻めました。新羅の王は「吾聞く、東に日本という神国有り。亦天皇という聖王あり。」と言い白旗を上げ、戦わずして降服して朝貢を誓い、高句麗・百済も朝貢を約したと言われます(三韓征伐)。八幡神がまつられたのは,欽明朝(奈良時代とも)の宇佐神宮が初めであり、次いで859年清和天皇が石清水八幡宮に分霊。諸源氏の氏神として尊崇され、源頼朝が鶴岡八幡宮に分祀して以後,全国の武士・庶民の間に分社・末社が広まりました。琉球王国は鎮西八郎を流祖とすると琉球正史に書いてありますが、家紋も源氏ゆかりの宇佐八幡宮の神紋と同じです。宇佐八幡宮は日本全国にある八幡宮の代表です。一説によれば「原始八幡信仰」は、韓国の南部地域に風雨の神であるヨンドン・ハルマンという、「老婆の姿をした子連れの神」がその起源であるという見解があります。風雨を支配する神が航海を司る神であると同時に、軍神としての性格を持つようになる過程は容易に想像できます。八幡神は源氏の氏神のみならず、倭寇の航海の守護神、軍神でもあり、倭寇活躍の舞台であった壱岐、対馬には多くの八幡神社があり、神功皇后と応神天皇を祀ったものが多いのです。また倭寇の船は八幡船(ばはんせん)とも呼ばれていました。
(「琉球王国と倭寇」、ウィキペディア参照)

『琉球伝・武備誌』エピソード㉕

<伊豆大島の流人>
既に戦後処理も一段落しており、為朝は武勇を惜しまれて助命され、8月26日に肘を外し自慢の弓を射ることができないようにされてから伊豆大島に流刑となりました。
やがて、傷が癒えその強弓の技が戻ると再び暴れ始め、島の代官の三郎大夫忠重の婿となり伊豆諸島を従え年貢も出さなくなりました。伊豆諸島を所領とする伊豆介・工藤茂光を恐れた忠重は密かに年貢を納めますが、それを知った為朝は激怒し、忠重の左右の手の指を三本切ってしまいます。伊豆大島に流されてから10年後の永万元年(1165年)は鬼の子孫で大男ばかりが住む鬼ヶ島に渡り、島を蘆島と名づけ、大男をひとり連れ帰りました。為朝はこの島を加えた伊豆七島を支配します。嘉応2年(1170年)、工藤茂光は上洛して為朝の乱暴狼藉を訴え、討伐の院宣が下りました。同年4月、茂光は伊東氏・北条氏・宇佐美氏ら500余騎、20艘で攻めよせました。為朝は抵抗しても無駄であろうと悟り、島で生まれた9歳になる我が子・為頼を刺し殺しました。自害しようと思いましたが、せめて一矢だけでもと思い、300人ほどが乗る軍船に向けて得意の強弓を射かけ、見事に命中し、船はたちまち沈んでしまいました。館に帰り、「保元の戦では矢ひとつで二人を殺し、嘉応の今は一矢で多くの者を殺したか」とつぶやき、南無阿弥陀仏を唱えると柱を背に腹を切って自害しました。享年32歳。追討軍は為朝を恐れてなかなか上陸しませんでしたが、加藤景廉が既に自害していると見極め薙刀をもって為朝の首をはねました。没年は治承元年(1177年)とも言われます。伊豆大島では今でも為朝が親しまれており、為朝の碑も建てられています。島の女性と結婚して移り住んできた本土出身の男性を、為朝の剛勇ぶりにあやかって「ためともさん」と呼ぶのもその名残だそうです。
(ウィキペディア参照)

『琉球伝・武備誌』エピソード㉔

<保元の乱>
翌保元元年(1156年)、鳥羽法皇が崩御すると、治天の君の座を巡って対立していた崇徳上皇と後白河天皇の衝突は避けられない情勢になっていました。双方が名だたる武士をそれぞれの陣営に招くなか、為朝の父・為義は上皇方の大将として招かれます。老齢を理由に再三これを辞したものの、遂には承諾させられ、為朝ら6人の子を引連れて崇徳上皇の御所白河北殿に参上しました。一方、為義の嫡男で関東を地盤としていた義朝は多くの東国武士とともに天皇方へ参じたのです。
為朝は三尺五寸の太刀を差し、五人張りの強弓を持って西河原面の門を守りました。7月11日、軍議が開かれ、為朝は「九州で多くの合戦をしましたが、夜討に勝るものはありません。ただちに高松殿(天皇方の本営)へ攻め寄せ、火を放てば容易に勝てましょう。兄の義朝が出てくれば私が射落としますし、清盛なぞは敵にもなりません。逃げ出してくる主上の駕車の人夫を射散らして、主上をお連れすればよろしい」と夜討を献策しますが、左大臣・藤原頼長は「乱暴なことを言うな。夜討などは武士同士の私戦ですることだ。主上と上皇の国を巡る戦いである。興福寺の僧兵の到着を待って決戦するべし」と退けてしまいました。為朝は兄の義朝は必ず夜討をしかけてくるだろうと予見して口惜しがったのでした。
その夜、為朝の予見通りに、天皇方が白河北殿に夜討をかけてきました。為朝をなだめる為に急ぎ除目を行い蔵人に任じるが、為朝は「もとの鎮西八郎でけっこう」と跳ね付けました。
平清盛の軍勢が為朝の守る西門に攻めてきました。清盛の郎党伊藤景綱とその子忠景(忠清)・忠直が名乗りをあげると為朝は「清盛ですら物足りないのに、お前らなぞ相手にならん、退け」と言います。景綱が「下郎の矢を受けてみよ」と矢を放つ。為朝はものともせず「物足りない敵だが、今生の面目にせよ」と先が七寸五分(22センチ)もある、鑿に矢軸をつけたような太矢を射かけ、矢は忠直の体を貫き、後ろの忠清の鎧の袖に突き刺さりました。忠清は矢を清盛のもとに持ち帰って報告し、清盛たちは驚愕して怖気づいてしまいます。清盛は部署を変えて北門へ向かうが、嫡男の平重盛が口惜しいことだと挑もうとして清盛があわてて止めさせました。
剛の者の伊賀国の住人山田伊行は矢一本で引き退くのは口惜しいと思い、進み出て名乗りをあげて射かけるが、一の矢を損じ、二の矢をつがえるところを為朝に射落とされてしまいました。
清盛に代わって兄の義朝の手勢が攻め寄せ、郎党の鎌田政清が進み出で名乗りを上げました。為朝は「主人の前から立ち去れ」と言い返しますが、政清は「主人ではあったが、今は違勅の凶徒」と言うや矢を放ち、為朝の兜に当ります。これに為朝は激怒して「お前なぞ矢の無駄だ、手打ちにしてくれる」と鎮西の強者28騎を率いて斬り込みをかけ、政清は敵わずと逃げ出し、「これほどの敵には遭ったことがございません」と義朝に報告しました。義朝は「馬上の技は坂東武者の方が上である」と坂東武者200騎を率いて攻めかかり乱戦となりました。
義朝は「勅命である、退散せよ」と大声をあげます、為朝は「こちらは院宣をお受けしている」と言い返しました。義朝は「兄に弓を引けば神仏の加護を失うぞ」と言うと、為朝は「では、父(為義)に弓を引くことはどうなのか」と言い返し、義朝は言葉に窮してしまいました。再び乱戦になり、無勢の為朝はいったん門内に兵を引きますが、義朝勢は追撃にかかります。義朝の姿を確認した為朝は射ようとしますが、よもや父と兄とに密契があるかもしれんと思いとどまりました。
接戦となると無勢の為朝は不利であり、大将の義朝を威嚇して退かせようと考えました。狙い誤らず、為朝の矢は義朝の兜の星を射削ります。義朝は「聞き及んでいたが、やはり乱暴な奴だ」と言うや、為朝は「お許しいただければ二の矢をお見舞いしましょう。どこぞなりと当てて見せます」と言って矢をつがえます。とっさに、深巣清国が間に割って入り、為朝はこれを射殺した。
大庭景義・景親の兄弟が挑みかかるが、為朝は試にと鏑矢を放ち、景義の左の膝を砕き、景親は落馬した兄を助け上げて逃げ帰りました。後に源頼朝に仕えて御家人になった景義は酒宴でこの合戦について、為朝は無双の弓矢の達者だが、身の丈よりも大きい弓を使い馬上での扱いに慣れずに狙いを誤ったのだろうと語っています。
義朝の坂東武者と為朝の鎮西武者との間で火が出るほどの戦いが繰り返されましたが、為朝の28騎のうち23騎が討ち死にしてしまいました。一方、坂東武者も53騎が討たれています。
他の門でも激戦が続き、勝敗は容易に決しませんでした。義朝は内裏へ使者を送り火攻めの勅許を求め、後白河天皇はこれを許しました。火がかけられ風にあおられて、白河北殿はたちまち炎上。崇徳上皇方は大混乱に陥り、上皇と藤原頼長は脱出。為義、頼賢、為朝ら武士たちも各々落ちました。
為義は息子たちと共に東国での再挙を図ります、老体であり気弱になり、出家して降伏することに決めました。「義朝が勲功に代えても父や弟たちを助けるだろう」と為義は希望を持ちます、為朝は反対してあくまでの東国へ落ちることを主張します。結局、為義は出頭して降伏します。しかし、為義は許されず、息子たちも捕えられ、勅命により義朝によって斬首されてしまったのです。
為朝は逃亡を続け近江国坂田(滋賀県坂田郡)の地に隠れました。病に罹り、湯治をしていたところ、密告があり湯屋で佐渡重貞の手勢に囲まれ、真っ裸であり抵抗もできず捕えられました。京へ護送された時には、名高い勇者を一目見ようと群衆が集まり、天皇までが見物に行幸しました。
(ウィキペディア参照)

『琉球伝・武備誌』エピソード㉓

ここで話題を日本国へと移します。時代的には岳飛の没年(1141年)に近い頃、日本に一人の豪傑が現れました。その名を源為朝(1139~1170年)と言います。平安時代末期の武将であり、源為義の八男。母は摂津国江口(現・大阪市東淀川区江口)の遊女。源頼朝、義経兄弟の叔父にあたります。為朝は身長七尺ほど(2m10cm)の大男で、目の隅が切れあがった容貌魁偉な武者でした。強弓の使い手で、左腕が右腕よりも4寸(12cm)も長かったそうです。勇猛で傍若無人、兄たちにも遠慮しませんでした。13歳の時、父・為義に勘当されて九州に追放されてしいます。尾張権守家遠が後見となって豊後国に住んでいましたが、肥後国阿蘇郡の平忠国の婿となり(薩摩国阿多郡の誤りとの説もあります、この場合、平忠国は薩摩平氏の平忠景)。その後、自ら鎮西総追捕使を称して暴れまわり、菊池氏、原田氏など九州の豪族たちと数十回の合戦や城攻めを繰り返し、3年のうちに九州を平らげてしまいました。香椎宮の神人が為朝の狼藉を朝廷に訴え出たため、久寿元年(1154年)に出頭の宣旨が出されてしまいます。為朝はこれに従わなかったのですが、翌久寿2年(1155年)に父が解官されてしまいました。これを聞いて為朝は帰参することにし、九州の強者28騎を率いて上洛しました。
(ウィキペディア参照)

『琉球伝・武備誌』エピソード㉒

ここで岳飛を始祖とする「形意拳」と「岳飛拳」の体系を整理しておきます。
≪形意拳の体系≫
◎単独演錬形(八形)
①五行相生拳 ②五行相剋拳 ③五行連環拳 ④四把捶 ⑤八式拳 ⑥八勢 ⑦十二紅捶
⑧雑式捶
◎形意五行拳(五形)
①崩拳(木) ②炮拳(火) ③横拳(土) ④劈拳(金) ⑤鑽拳(水)
◎十二形拳(十二形)
①竜形 ②虎形 ③猴形 ④馬形 ⑤龜形 ⑥鶏形 ⑦燕形 ⑧蛇形 ⑨台形 ⑲鷹形
⑪熊形 ⑫鷂形

≪岳飛拳の体系≫
◎歩法(四形)
①坐馬椿 ②弓箭椿 ③梱竜椿 ④丁字椿
◎腿尖法(二形)
①五腿練法(腿練五形) ②三尖練法(指練三形)
◎手法(七形)
①牽縁手(猴手) ②纏手(蛇纏)③長短分竜手(左右開門手) ④箭手 ⑤欠挑手 ⑥拘托手 ⑦挿手(点手)
◎拳法(五形)
①平拳(衝拳) ②抄拳(揚拳) ③裁拳(陰拳) ④螺拳 ⑤点拳
◎掌法(二形)
①柳葉掌(北派系) ②虎爪掌(南派系)
◎通行裁解手法(五形)
①挑撥手 ②欠切手 ③拘托手 ④封逼手 ⑤擒拿手
◎四忌
①脇(攻守法) ②前後(洞察法) ③左右(趨避法) ④進退(移動法)
◎六宜
①勢(勢威) ②力(気魂) ③制(判断) ④入(決断) ⑤急(敏捷) ⑥変(応変)
◎練拳五要
①要漸進(不可猛進) ②要有恒心(不可中途停輟) ③要節色欲狂飲 ④要静気疑神(涵養謹慎) ⑤要謹遵宗法(豪侠仗義救弱扶危)
金の後裔(愛新覚羅氏)が中国の支配者となって清朝を興した後に出てきた正体不明の武術門派はいずれも討清復明を願っていた為、金軍討伐の英雄である岳飛を始祖とすることによって、自門の信用を高めようしました。武術門派にとって、岳飛の名は甚だ都合の良い看板になったわけです。
(「格闘技の歴史」参照)

『琉球伝・武備誌』エピソード㉑

岳飛は戦略・戦術に長じ、勇気と決断に富んだ親分肌の軍人ではあったが、政治家ではありませんでした。もし、趙匡胤ほどの人望と有能な参謀がいれば、朱仙鎮の陣営で皇帝に推戴されていたかもしれません。岳飛を創始者とする「形意拳」は、槍の技法を応用した地上最強の実戦拳とうたわれ、「一拳一打を以て、万拳を打ち砕く」と恐れられていますが、岳飛が湯陰の禅僧から拳法を学んだとしても、19歳までのことであり、その後は、殆ど戦争に明け暮れていますので、どうしても力の優先した技法とならざるを得なかった。本来、湯陰の禅僧が教授した拳法は、体力や腕力よりも、気魂に重点をおいた禅門拳の筈なので、「岳飛拳」の技法は、岳飛の創始した軍事用の実戦拳と考えるべきでしょう。後に「岳門拳」には、岳家拳、岳王拳、精忠拳、意拳、心意拳、六合拳、岳家散手、鷹爪翻子拳、岳家八翻拳などの名称(時代呼称・地域呼称)が付けられていますが、その基本体系は、「形意拳」と「岳飛拳」に集約されます。また、形意拳には、山西派、河北派の別があるものの、技法の体系は、「単独演錬形、形意五行拳、十二形拳」にまとめることが出来ます。歩法も「鶏形歩、馬形歩、碗旋歩」の三つが基本になっています。また組手形は、「五花砲、五行砲、挨身砲、九套環、両手砲、五行相剋拳、安心砲」の七形を修得する仕組みになっています。
(「格闘技の歴史」参照)

『琉球伝・武備誌』エピソード⑳

いよいよ岳飛の武術としての側面を探ってみます。まずエピソード⑰で本ページをご覧の方から、岳飛は「梨花槍」を学んでいたという助言を賜りましたので、岳飛の槍術について考察してみます。実際の所、槍術流派が文献上に現れてくるのは明代に入ってからでした。それは概ね次の二種類の分けることが出来ると言われています。一つは、明の時期に現れた楊家槍法・少林槍法・馬家槍法・沙家槍法・韓氏槍法・峨眉槍法・李家短槍・石家槍です。これらの槍術は明代以前の文献には記されておらず、これらが明代に現れ、また実際に行われた槍法であったことはまず疑いがありません。もう一つは、鄭若會の『江南経略』(1568年刊)と王圻の『続文献通考』(1586年成立)に登場する拐突槍・拐刃槍・錐槍・拒馬槍といいた槍術流派ですが、これらの一部は流派名ではなく、北宋の會公亮らが著した軍事著書『武経総要』に登場する武器の名称でした。さて、これらの槍術流派の中で、断然注目されるのが、本稿のテーマでもある『武備志』に最も関連のある楊家槍法(梨花六合)です。唐順之(1507~1560年)『武編』前集巻五「槍」、戚継光(1528~1587年)『紀効新書』巻十「長兵短用説篇」、茅元儀(1594~1630年)『武備志』巻八十七「槍」に登場するのが、この楊家槍法です。これら三人の軍学者・武将たちはこれから何度も登場することになりますが、今は、彼らの著書がすべて宋太祖拳でも繋がっていることだけを明記しておきます。明代の槍術が宋以来の槍術流派発展の流れの延長線上で成熟していったことは前述した通りであり、周辺異民族との戦争が絶えず、また国内でも社会矛盾が先鋭化する等の理由から騒乱が頻発した為、槍術が有効な軍事機能として注目されて発展しました。楊家槍法(梨花六合)の特徴としては、槍の長さは一丈四尺~一丈八尺(445.2~572.4㎝)、技の体系は八母・六合・二十四槍勢、主要な特徴は、槍の末端を握り、槍先をなるべく前に突き出す。奇正・虚実があり、進退が速く、軍隊に多用されました。余談ですが、写真に載せた小説『梨花槍天下無敵』(井上祐美子著)の主人公の女性が楊妙真というのも頷けます。私も最近、「陳式太極拳梨花槍」と思しきものを習い始めましたが、まさかここで繋がるとは思ってもいませんでした。本当に貴重なご意見ありがとうございました。
(「中国武術史」参照)

『琉球伝・武備誌』エピソード⑲

物事は必ず両側からみる必要があります。宋国を苦しめた金国の強みはいったい何だったのでしょう?金の女真族の勢いはやがて清国にも受け継がれ、漢民族を脅かす強力なライバルとしてクローズ・アップされます。女真族は現在の中国東北部の森林地帯で狩猟・農耕を生業としたツングース系民族です。エピソード⑮で触れたように阿骨打(1068~1123年)が契丹に反旗を翻して1115年に皇帝即位を宣言して、首都を上京会寧府に定めました。全女真族の統一に成功した阿骨打はさらに宋と同盟して契丹に挟撃を加え、契丹の勢力を長城以北から一掃しました。二代目の完顔晟(太宗)は契丹にとどめをさした後には、宋を服属させました。金は阿骨打の挙兵からわずか十余年で華北を領有するまでに急成長を遂げたわけですが、その圧倒的な強さの秘密は猛安・謀克と称される制度にありました。これは女真族固有の部隊組織をもとに編成された軍事的かつ社会組織であり、全女真族は300戸を以て1謀克部、10謀克部を以て1猛安部に組織されました。つまりは国民皆兵制度でありました。戦時には1謀克部から100名の兵士を徴収して軍隊の基礎単位としました。一方、宋王朝の支配者層は文治政治を徹底し、軍事力は低下の一途をたどっていた為、金国の軍事力に圧倒され続けたわけです。
(「目からウロコの東洋史」参照)

『琉球伝・武備誌』エピソード⑱

中国史上に忠心愛国の鑑、救国の英雄と讃えられ、大変人気の高い岳飛(1103~1141年)は、客観的評価は別として、悲劇的最期を遂げたことが名声をより高めたのは言うまでもありません。南宋建国当初、軍の指揮系統は極めて混乱し、中央軍の残存部隊、地方有力者が率いる義軍、投降した盗賊等が混在していました。これら諸部隊を統轄するための御営司が新設されますが、高宗以下中央政府の不安は去りませんでした。名目上は正規軍に編入されたものの義軍の実態は私兵を擁する軍閥であり、これはある意味で金軍以上の脅威とも言えました。岳飛もまた義軍を率いて南宋に身を投じた一人でしたが、背中には母親によって彫られたという「精忠報国」の字を刻み、華北奪回に向けて意気込みは凄まじく、麾下の部隊も「岳家軍」と称される精鋭で金軍からも大変恐れられていました。度重なる戦争の後、ようやく臨安に落ち着いた南宋では主戦派と和平派の対立が顕著になりました。主戦派の急先鋒は韓世忠や岳飛といった金軍に対して度々勝利を得ていた将軍達であり、和平派の筆頭は宰相・秦檜(1090~1155年)でした。この政争は高宗の信任を得た秦檜の主張に沿う和平派が勝利して金との和議が進められました。主戦派の中心であり、民衆に絶大な人気のあった岳飛は危険な存在であり、1141年に秦檜は岳飛の養子岳雲、岳家軍の最高幹部である張憲に対し、冤罪を被せて謀殺しました(表向きは謀反罪でした。)韓世忠が「岳飛の謀反の証拠があるのか」と意見しましたが、秦檜は「莫須有(あったかもしれない)」と答えました)。この時、岳飛は39歳、岳雲は23歳でした。後に(秦檜の死後)冤罪が晴れると、1178年に武穆と諡され、1204年には鄂王に追封されました。杭州の西湖のほとりには岳王廟が建立され、岳王廟の岳飛・岳雲父子の墓の前には、彼らを陥れた秦檜夫婦・張俊らが縄で繋がれた形で正座させられている像が造られています。近年は当局により禁止されていますが、かつては彼らに唾を吐きかける風習があったそうです。この様に岳飛は後代、救国の英雄として称えられた。現代でも中国の歴史上の英雄と言えば、まず岳飛の名前が挙がるほどです。
(「目からウロコの東洋史」、「ウィキペディア」参照)

『琉球伝・武備誌』エピソード⑰

岳飛の生地・湯陰には、漢の武帝(在位紀元前141~87年)の命を受けて、初めて西域への旅にのぼった張騫(紀元前114年没)の墓があり、すぐ北側の安陽は、後趙の明帝・石勒(在位319~333年)、武帝・石虎(334~349年)などが帰依したことで有名な華北仏教の開拓者・仏図澄(348年没)や、達磨禅の二祖となった慧可禅師などが住んでいた所なので、多くの戦乱を乗り越えた後にも、いくつかの古刹は残っていたはずですし、住持にも一廉の人物がいた可能性があります。『宋史』の『岳飛伝』によれば、「岳飛は生まれつき神力を有し、未冠(18歳頃)にして、弓三百斤、弩弓八石を挽く。周侗に射を学び、その術を盡し、能く左右に射る。」とあります。この記載からは第一に当時の民間に射術を伝授する武術家が存在していたこと、第二に民間における射術も弓力と左右射を重視していたことが解ります。
また、宋代の軍隊では槍が主要な長兵器として使用されていましたが、民間では槍に加えて棒が好んで訓練されていました。岳飛は槍術に関しても「母の家の姚大翁、甚だその為人を喜び、宣和四年(1122年)槍手の陳広をして攻撃を以てこれ(岳飛)を教えしめ、一県に敵なし」との記述が残されています。民間においても槍を用いる者の数は非常に多く、それぞれ伝承に差異があり、宋代の槍術は既に「分家」と呼ばれる流派の別が見られました。また、宋代に「使棒」という言葉が初めて使われ、その意味するところは、棒を用いて武術の訓練をすること、あるいは棒を用いて武術の腕比べを行うことでした。当時、この様な武術活動は都市でも農村でもよく見られました。
(「格闘技の歴史」「中国武術史」参照)

『琉球伝・武備誌』エピソード⑯

岳飛についての著書は日本では、北方謙三や田中芳樹の『岳飛伝』の主人公としてお馴染みであり、ここではその人物史についての詳細は省略します。一般に岳飛拳の始祖・岳飛(1103~1141年)は、北宋の末期ごろ、相州湯陰(河南省安陽付近)に生まれた貧農の倅で、父の名を岳和といい、母は姚氏の女であると言います。父の素性は全く解らないため、何とも言えませんが、生地の湯陰は、河北省と山西省に挟まれた省境地帯で、南北朝以前から胡人種の多いところでした。母の姓である姚氏は、羌族(チベット系遊牧民)の姓であるところから考えても、華北に棲みついた胡人系の一族とみて間違いないと思います。画像に描かれる岳飛の面貌や体躯は、趙匡胤よりも、はるかに西域人(トルコ族・イラン族)に近い印象を受け、群を抜く頑丈な骨格もさることながら、髭の濃さといい、鼻梁の高さといい、眼裂の大きさといい、漢人の面影がまるで感じられません。伝にも「身長六尺五寸あまりの大男で、目は瑠璃色に輝き、濃い茶色の髭を垂らしていた」とありますので、姚氏の方にも、西域人の血が混じっていたのではないかと思われます。岳飛の父である岳和の祖先もおそらく、突厥(トルコ系騎馬遊牧民族)の軍人だった可能性があります。岳飛は豪農の出であったが、幼いころに父を亡くし、生母と共に貧農生活を送っていたと伝えられていますが、貧農の倅が少年時代から周侗という兵法と武術の名匠について、「春秋左氏伝」や「孫子」「呉子」を学ぶと共に弓術・鎗術・刀術などを学んでいることからも、親の側にそれに対応する心構えと余裕がなければなりません。貧農の家庭にあるまじき状況から判断すると、父の岳和は単なる農耕民の一人だと考えるわけにはいきません。何らかの事情で帰農をしたが、かつては名のある武将であったと推測されます。
(「格闘技の歴史」参照)

『琉球伝・武備誌』エピソード⑮

南宋は、北宋八代帝・徽宗(在位1101~1125年)の第九子・趙構(1107~1187年)が、南京で即位を宣言した亡命政権です。北宋を滅ぼした金の女真(ジョシン)は、現在の中国東北地区(満州)黒竜江省の松花江の支流・按出虎水(中国語版)(アルチュフ川)流域にいて、遼に対して服属していました。しかし遼の支配者たちは奢侈が募り、女真に対して過酷とも言える搾取を行っていました。これに対し、女真族の完顔部から出た阿骨打が反乱を起こし、1115年に按出虎水の河畔で即位し、「金」(女真語でアルチュフ)を国号としました。この国号は、女真族が按出虎水から産出する砂金の交易によって栄えたことからつけられたとされます。最初の首都となった会寧(上京会寧府)は按出虎水の河畔にあり、現在のハルビン市阿城区にあたります。金は1120年に北宋と「海上の盟」と称される盟約を結び、遼を挟撃して分割し、宋側には燕雲十六州を引き渡すことを約束しました。しかし、宋は攻略にてこずったために金が燕京(現在の北京)を落とし、宋に割譲しました。阿骨打は1123年に死去しますが、弟の呉乞買(太宗)が後を継いで遼との戦いを続け、1125年2月に逃れていた遼の最後の皇帝天祚帝を捕らえ、遼を完全に滅ぼして内モンゴルを支配しました。一方、燕京を手に入れた宋軍は、遼の残存勢力と手を組んで金を牽制するなど、盟約に従って燕京を割譲した金に対する背信行為を繰り返したので、これに怒った太宗は1125年9月宋に侵攻し(靖康の変、1125年9月 - 1127年3月)、華北を席捲し、宋の首都開封を包囲しました。宋では欽宗が新たに即位して金の包囲に耐え、金もいったん和議を行い北に引き揚げました。しかし金軍がいなくなると、またしても宋は背信して和約を破ろうとしたので、1127年に金軍は再び南下して、首都・開封を破壊占領し、皇族や貴族を平民にたたき落とし、軍の引き揚げに際しては、八代帝・徽宗、九代帝・欽宗をはじめ、皇族・貴族・官僚・技術者など数千人を捕虜として、ハルビン東北の寒冷地・五国城へ連れ去って行きました。こうして金は北宋を滅ぼしましたが、中国への急速な拡大は金の軍事的な限界点をあきらかであり、太宗は過度の負担を避けるため、華北に漢人による傀儡国家を樹立させて宋の残存勢力との間の緩衝体にするため、国名を楚と改めさせた上、宰相の張邦昌を帝位につけ、金の属国にしてしまいました。しかし張邦昌は、金軍が引き上げるとすぐに退位を宣言し、欽宗の弟の趙構(高宗)を皇帝位につける運動に加わりました。趙構は南方へ逃避した官僚・駐留軍・敗残兵などに擁立され、孟皇后(七代帝・哲宗の皇后)の承認を得た上で、帝位についたものの、金軍に対抗できるような実戦部隊は存在していませんでした。金は、1125年から南宋に対する懲罰を名目として再度の南征を開始し(宋金戦争、1125~1234年)、淮河の線まで南下して岳飛らが率いる義勇軍と戦いました。ここに中国史上、最も人気の高い武将の一人であり、岳飛拳の始祖とされる、岳飛(1103~1141年)が登場するのです。1130年、金は南宋の力を弱めるために、宋の地方知事であった劉豫を皇帝に立てて斉を樹立し、今度は安定した傀儡国家を作ることに成功しました。同年、宋の官僚秦檜が捕虜となっていた金から南宋に帰国し、金との和平推進を唱えて実権を握りました。金と南宋双方での和平派と戦争継続派の勢力交代の末、1142年に両国の間で最初の和約が結ばれました(紹興の和議)。この和約は、宋が金に対して臣下の礼をとり、歳幣を毎年支払うことを定めるなど、金にとって圧倒的に優位な内容でした。
(「格闘技の歴史」、ウィキペディア参照)

『琉球伝・武備誌』エピソード⑭

以下は、武道研究家・藤原稜三氏(1925年札幌市生。武術評論家、綾雲禅庵々主、教育思想史博士)による腿撃法二十四技の紹介です。各門派の共通原理・原則に基づいた分類であり、『琉球伝・武備志』の技法解釈にも大変有効な分類です。
①踏膝腿
 敵の攻撃拳を外側から掴み取り、足底で敵の膝部を蹴る
②挑腿
 敵の攻撃拳を外側から内側に捩り込み、足先で敵の下陰部を蹴る
③掃腿
 敵の攻撃拳を外側から捌き、敵の出足を一気に払って転倒させる
④載踏腿
 敵の蹴り足を外側に捌き、側方から敵の下陰部を蹴る
⑤弾腿
 敵の攻撃拳を左右に流しながら、足刀で敵の脛を蹴る
⑥割腿
 敵の攻撃拳を内側から捌き、足底で膝部を遮断し、裏拳で顔面を打つ
⑦横踏腿
 敵の攻撃拳を外側から捩り込み、足底で脇肋骨部を蹴る
⑧膝撩腿
 掌底で敵の顔面を圧し、反身になったところを膝頭で下陰部を突く
⑨弾踏腿
 蹴り足を敵にとられたとき、反転して跟で敵の水月を蹴る
⑩鈎絆腿
 敵の攻撃拳を外側へ、喉元を挟圧しながら、敵を捩り倒す
⑪穿心腿
 攻撃拳を敵に捌かれたとき、跳躍して足底で敵の胸部を破砕する
⑫偸端腿
 敵の蹴り足を足先で捌き、足底で敵の膝部を蹴る
⑬圏弾腿
 敵の蹴り足を足先で捌き、反転しながら敵の上腿部を破砕する
⑭深喉腿
 敵の攻撃拳を外側から捌き、足先で敵の咽頭部を蹴る
⑮撞心腿
 敵の攻撃拳を外側掴み取り、自分の上腿部に急落させて折り砕く
⑯朶膝腿
 敵の発動する足払いを反転して捌き、敵の外膝部を直角に破砕する
⑰立鴛鴦腿
 敵の攻撃拳を捌きながら、左右の蹴りを間断なく浴びせる
⑱臥鴛鴦腿
 臥せながら、転翻身しつつ、左右の蹴り間断なく浴びせる
⑲鈎踏腿
 敵の攻撃拳を外側から掴み取り、臥転して低位の蟹挟みで転倒させる
⑳絞蹴
 敵の攻撃拳を外側から掴み取り、臥転して中位の蟹挟みで転倒させる
㉑挟翦腿
 敵の攻撃拳を内側から掴み取り、両脚で敵の腰部を挟んで転倒させる
㉒単飛腿
 一気に跳躍して敵の咽頭部を足先で蹴る
㉓雙飛腿
 一気に跳躍して敵の胸部・背部を両足底で蹴る
㉔滾翦腿
 敵の攻撃拳を流し、臥転しながら蟹挟みで転倒させる
(「格闘技の歴史」参照)

径路刀(剣)=アキケナス式短剣


アケメネス朝のイランやスキタイで用いられた短剣のギリシア名。長さ 40~60cm。両刃で断面は平たい菱形,柄の部分は扁平,柄頭はT字状,触角状,環状をなしている。青銅製と鉄製の2種があり,南ロシアからシベリア,中国北部にいたる北方ユーラシア地帯から比較的多数出土している。アケメネス朝のそれはペルセポリスの浮彫に描かれており,中国史料『漢書』に径路刀とあるのもこれである。鐔 (つば) の部分が2個のハート状になっているのが特徴。
(ブリタニカ国際大百科辞典より)

『琉球伝・武備誌』エピソード⑬

遊牧民族の伝える「腿撃法・弾腿法」とは具体的にはどの様なものであったかを紹介します。「腿撃法・弾腿法」は実戦的な格闘術であり、武器や防具の発達と共に少しずつ変化してきたとはいえ、その基本原理に変わりはありませんでした。腿撃法は乗馬用の革製ブーツ(長靴)を履き、手には径路刀(両刃の短剣)を持っていました。各種の腿撃で敵を倒した場合も、そのまま放置する様なことはせず、敵の頸動脈を切って最期の始末をつけるか、片足の腱を切って奴隷として連れて帰ることになりました。しかし、鉄製の兵器や防具が発達してくると、戦争の方式にも変化が生じ、明朝時代に入ると、個人の格闘術は、ほとんど体練用のものとなり、兵式訓練の方式も、集団の力を効果的に発揮するための武器の操作法に重点が移されていきます。そうした没個性的な戦技に反発する人達によって、旧来の伝統伎を守り抜こうとする気運が生じ、そこから、門派・流派が出現してきました。一口に伝統伎といっても、門派・流派が存在するためには、それぞれの門派間に技法上の相違がなければなりません。「仕掛け」「捌き」「流し」「外し」「投げ」「絞め」「当身」「関節技」「連環技」などから、「奪器術」「蘇生術」「気功」「整骨法」「薬治法」に至るまで、色々と細かな部分にまで研究の手を加える様になりました。それは各々の門派・流派の都合ではありましたが、それなりの成果を上げていきました。ところが一方、訓練技としては、門派・流派によって名称や動作に多少の違いはあるにせよ、共通の原理・原則に基づく技が必ず遺されているはずです。次回は「腿撃法・弾腿法」の基本となる二十四技を紹介したいと思います。
(「格闘技の歴史」参照)

『琉球伝・武備誌』エピソード⑫

さて、またもや趙匡胤に話を戻します。趙匡胤が趙家拳として、中国拳法史上不動の地位を保ち続けていますが、今日にみる姿は、残念ながら1000年以上の時を経て、その技法を大きく変えているため、もはや昔日の原形を復元することは難しいでしょう。しかし、そこがロマンでもあります。趙家拳が、遊牧騎馬民族の格闘術が発達したものであることは、前述しましたが、騎士が実戦で用いるのは、拳や掌を用いる「手技」ではなく、足脚を用いる「腿撃法」なので、趙家拳とは呼ぶものの、その実態は「蹴技」であり、江南で発達した手技系の拳法とは本質的な違いがあると思われます。腿撃法(弾腿法)が、騎馬民族の血脈を継いでいる華北地帯に多く残され、河川湖沼を抱えた華南地方に少ないのも、拳法が生活と結びついた武術であったからです。いわゆる「南船北馬」と呼ばれる生活手段が、そのまま「南拳北腿」と呼ばれる武術の歴史にも繋がります。勿論、南拳にも「腿法」が含まれ、「北腿」にも「手技」が含まれています。趙匡胤が創始したと言われる、宋太祖三十二勢長拳にしても、純粋に「腿法」のみ記載されたものではありません。また、『北拳彙編』に記された、少林寺壇中に趙匡胤が残した拳法の伝書が存在するという事実は、今日に至るも確認されていません。「天下の功夫、少林より出づ」という言い伝えがありますが、その一方で、『少林武僧志』には「北宋太祖建隆初年初年(960)に少林寺方丈の福居上人が全国から十八家の武術家を招集して、各家の技術を集めて整理し、拳譜を作成して寺僧に練習させた」とあり、太祖拳、七勢通拳、通臂拳、短打、猴拳、螳螂拳の名が挙げられているそうです。そうであれば、純然たる趙家拳=太祖拳はその拳譜の一部を構成しているだけであり、少林寺に各地の武術が集められ、それらが統合されたと考えることもできる訳です。この様に南北拳法を峻別することは極めて困難であり、前述した黄河流域、長江流域、珠江流域といった自然的・地理的環境の影響と地域伝統を反映した郷兵訓練の成果が互いに混じり合って今日に存在していると考えるべきなのです。
(「中国武術史」「中国武術」(少林拳と太極拳)参照)

『琉球伝・武備誌』エピソード⑪

郷兵は特に戦争の多い北部や西北部では頻繁に招集され、黄河流域における郷兵組織の規模は歴史上、他に類を見ないほど拡大していました。一方西から東に中国を横断して流れる長江以南には水戦を不得手とする北方騎馬民族は容易に侵入することが出来ませんでした。長江以南は河川が縦横に走り、山林も多く、地形の高低差が激しく、起伏に富んだ山岳丘陵、複雑に入り組んだ河川湖沼により地域間の交通が阻害され、土地ごとの生活環境に大きな差異が生じ、多種多様な文化が形成されたのでした。特に、西南部にある様々な少数民族が居住する地域には、その険阻な地形も手伝って民族ごとの閉鎖社会が存在しており、太古からそれぞれが特色のある独自の文化を営んでいました。このような自然的・地理的環境の影響により、交通の便がよく、文化交流が盛んであった半面、不安定の時期が多かった北方領域と比較して、南方では長期に渡って安定した社会が築かれていました。このため黄河領域と長江領域で展開された武術にも性格の違いが現れたのです。宋代の複雑に変化する社会情勢下において、各地で様々な武術訓練や個人的な武術の伝授が行われ、地域の伝統を反映した多様性をすでに獲得していました。
(「中国武術史」参照)

『琉球伝・武備誌』エピソード⑩

宋王朝の最大の特徴はその文治政治にあります。何故なら、唐末、五代を通じて節度使など武人による叛乱や政権簒奪が相次いでいたからです。このため宋王朝の支配者層は文治政治の徹底によって皇帝権力を強化しました。しかし、その反面、宋王朝にける軍事力は低下の一途をたどり、異民族の侵入に対して脆弱なものとなりました。そのため、当事の人々は自己救済のために団結して結社をつくり、防塞を築いて農耕を行いつつ異民族の侵略者と戦うようになりました。この様な現象は主に華北において多く見られました。そして、中期以降、金国が華北を制圧すると、女真貴族の統治に対する人々の抵抗もまた激化しました。この様な社会状況は当時の民間武術を大いに発展させる要因となりました。宋代には異民族の侵入や地方反乱に対応するため、官許された民間の武術組織が数多く現れました。これらの組織は「郷兵」と呼ばれています。『宋史』の中の『兵史』には「郷兵は戸籍より選び、あるいは土民の応募する者、在所にて団結訓練し、以て防守の兵と為るなり。」とあります。注目に値するのは当時すでに黄河流域と長江以南の郷兵に異なる特色が現れていた点です。黄河流域とりわけ北部及び西北部は太古から中原の農耕民族と北方の遊牧民族という二つの異質な文化が衝突する場でした。当時も宋と遼・西夏・金との間に戦争が勃発していたため、元来、尚武の気風が濃厚な土地柄も手伝って、異民族の侵入に対抗するために各地で郷兵の活動が盛んでした。これらの郷兵は民兵として各自の郷里と強力に結びついており、朝廷に募集・許可・援助・指導されることによって勢力を拡大していきました。平時は地元で武術訓練を受けながら農業携わり、戦時は官軍を助けて城市を防衛し、官軍の欠員を補充し、地方の治安維持を行っていました。
(「中国武術史」参照)

『琉球伝・武備志』エピソード⑨

趙匡胤が建国した宋王朝は決して順風満帆とはいきませんでした。宋は後に華北一帯を異民族政権に占領され、江南に遷都したので、南遷前を北宋時代(960~1126年)、南遷語を南宋時代(1127~1279年)と呼んで区別しています。
建国当初は北方に強大なモンゴル系契丹族の遼国(907~1125年)及び北韓が存在していたため、最初に豊かな江南地域を攻略しました。宋軍は江南各地の割拠政権を相次いでうち滅ぼし、さらに矛先を華北に転じると北韓を滅亡させました。さらに全国統一を目指した宋は大軍を動員して遼国を攻撃しますが、強勢を誇る遼軍によって逆に苦しめられることになりました。宋国は当時の国内事情から戦争の長期継続は至難であり、宋国は遼国に和議を申し入れます。いわゆる澶淵の盟(1004年)を結んで銀や絹を歳幣することを条件に和睦しました。やがて、西北地方にチベット系タンゲート族が西夏国(1038~1227)が建国されると、宋は軍事力でこれを圧伏しようと試みました。しかし、国民皆兵の西夏軍は手強く、宋軍はまたしても苦境に陥ります。結局、西夏とも和睦して講和条約が締結されましたが、西夏国は宋国に臣従する代償として絹・銀・茶を得ることになりました。また、東北地域において遼国に服属しつつ狩猟生活を送っていたツングース系女真族は12世紀初頭に民族の統一を達成すると一転して強盛となり、金国(1115~1234年)を興して遼国の支配から独立しました。新興の金国は遼国の領内に侵攻して、遂にこれを滅亡(1125年)に追い込みました。さらに中原へと進出して、宋の首都である開封を陥落(1127年)させ、皇帝欽宋を始めとする皇族の大半を拉致して北方に連れ去りました。残された宋の皇族は江南に逃れて政権を再建し、以降、金国と南宋は南北に分かれて対峙しながら13世紀初頭まで戦い続けることになります。いよいよ漢族VS女真族の構図です。
(「中国武術史」参照)

『琉球伝・武備志』エピソード⑧

前々回の趙匡胤の絵で注目したいのは、「蹴鞠」をしている場面です。今回はこの「蹴鞠」について迫ってみます。後漢時代(25~220年)に班固が著した『漢書』全百巻の中の『漢書芸文志』に『兵書の部』があり、当時存在していた兵書を兵権謀、兵形勢、兵陰陽、兵技巧に分類した目録があります。この中の『兵技巧』は武術を表しています。そこには『技巧は手足を習わし、器械を便にし、機関を積み、以て攻守の勝ちを立つるものなり。』すなわち戦闘技術論が記されています。その十三家一九九篇の多くは射法(弓術)に関する書が列記されていますが、射法を除く武術書の一つとして、十四『手傳六篇』の書が記されています。『手傳』とは『手で傳つの意』すなわち拳法の別名です。最古の拳法書であり、漢の時代に確実に体系化された拳法が存在していたことを証明しています。さらに『手傳六編』とともに注目されるのは、十六『蹴鞠二十五篇』が記されていることです。「蹴鞠」は、戦国時代に流行していた軍事的スポーツであり、日本でも平安時代から親しまれていますが、『海道一の弓取り』と言われた駿河国・遠江国の守護・戦国大名である今川義元(1519~1560年)は公家風を好み、彼の嫡男である今川氏直(1538~1615年)は、蹴鞠の名手として知られています。今川家が公家風を好み、武芸の嗜みとしても、「蹴鞠」を好んだことも納得できます。因みに今川親子の活躍時期は『紀効新書』や『武備誌』が著された時期とちょうど合致していますし、この家系より関口流柔術の祖である関口柔心が出ています。話は戻りますが、趙匡胤が部下の前で「蹴鞠」を披露している光景は、趙家拳が腿撃を得意とした騎馬民族系の拳法であることを充分に伺わせます。
(「格闘技の歴史」「中国拳法伝」参照)

『琉球伝・武備志』エピソード⑦

五代十国の混乱を終息に導いた宋の建国者・趙匡胤(927~976年)の創始したと言われている拳法は、趙家拳とか趙門拳、または三十二勢長拳とも呼ばれました。趙匡胤が宋の太祖となったことにより、太祖拳または太祖長拳、宋太祖三十二勢長拳とも称されましたが、これは後世のことです。趙匡胤は、趙家拳の祖と言われますが、実際は趙一族に伝わる徒手格闘術(拳法・腿撃・奪器術)を整理統合し、それを体系化した中興の人と言うべきでしょう。彼は身長180cmを優に越える肥満体の大男で、大酒のみの剛勇でしたが、智謀に富んだ親分肌の人柄だったと伝えられています。前回の絵を見る限りでは、髯の薄い漢人風の容貌の持ち主ですが、頑丈な骨格と雄偉な体躯から受ける印象は、明らかに漢人のそれと異なり、遊牧騎馬民族としての食習慣を変えなかったことによるものだと思われます。
趙一族は、おそらく唐朝期に漢人化した胡人(雑胡)と呼ばれた人々であり、戦争を職業とする胡人の傭兵部隊は、五胡十六国時代に最盛期を迎え、その後も需要の絶えることはありませんでした。趙一族もそうした需要に応じながら、東北地方を移動していた部族の一団と推測されます。それというのも、趙匡胤の生まれ場所が、河南省洛陽東郊に設営されていた「夾馬栄」という騎馬部隊のテント兵舎だったからです。父の趙弘殷は、後周に仕える騎馬部隊の指揮官でした。
(「格闘技の歴史」参照)

『琉球伝・武備誌』エピソード⑥

前回まで、少々脱線気味に思われた「媽祖」についてですが、彼女の生年月日が正確に記録されていることや、福建省や琉球や海洋民族との深い関係は見逃せません。さて、「黙娘=媽祖」の生年月日は建隆元年(960年)3月23日であり。この年に宋太祖・趙匡胤が皇帝に即位しています。趙匡胤(ちょう きょういん)は、北宋の初代皇帝(在位:960年2月4日 - 976年11月14日)。廟号は太祖。「陳橋の変」959年、五代随一の名君とされる後周の柴栄(世宗)が急死し、当時7歳の皇太子柴宗訓が帝位に即きました(恭帝)。しかし軍部を中心に、幼少の皇帝を主君に仰ぐことへの不安の声がじわじわと上がり出し、一部からは成年の有力な皇帝を擁立すべしとの声が出始めていました。翌960年、北方の大国・遼の軍勢が大挙して押し寄せてきたとの知らせを受けた後周の朝廷は、殿前都点検・趙匡胤を国防の総帥に任じ、遼軍への対処を委ねました。趙匡胤が陳橋に入り、習慣であった深酒をして深夜に熟睡をしている時に事変が起こりました。かねてより幼君を主君に仰ぐことに不安を抱いていた軍人たちが、趙匡胤の弟・趙匡義を仲間に引き入れた上で、首都の開封に戻って恭帝に代わり皇帝になるよう趙匡胤に求めたのでした。趙匡胤「お前たち、本気でそう言うのか?」趙匡義「無論です。こんな大事を冗談で申せましょうか?」趙匡胤「仮に断るといえば、どうなる?」趙匡義「兄上のお命を頂戴してから、私どもも後を追って自刃いたす所存です。」趙匡胤「皆がそこまで言うのならば、やむを得ん。私が皇帝となろう。」かくして、趙匡胤は部下の用意した黄袍(黄色い衣)を身に纏いました。黄袍は皇帝の着る衣服でした。将兵に皇帝として、開封に戻ることを伝え、略奪等の蛮行を禁じました。翌朝、開封に入ると、恭帝からの禅譲を受け、正式に皇帝となりました。これが北宋の太祖です(趙匡義はのちに第2代皇帝・太宗となった)。無理押しをせず血生臭さを嫌った趙匡胤は、全軍の前で三項目を守ることを条件に禅譲を受けます。「第一に後周の国の皇太后の母子に指一本触れぬ事。第二に今まで国政に当たっていた公卿・大夫を辱めないこと。第三に国庫・財産を略奪しないことでした。」また、科挙を改善して殿試を行い始め、軍人の上に官僚が立つ文治主義を確立しました。こうして趙匡胤の立てた宋は実に南北両宋をもって300年の長命の王朝を築くことになります。史上有名な『宋太祖三十二勢長拳』はこの趙匡胤が伝えた拳法であるといわれています。『北拳彙編』では、「少林派はまた外家と称され、趙匡胤は元祖である。趙匡胤には凄技があり、秘匿して人には見せなかったが、酔った勢いで群臣にその奥義の蘊蓄を語った。彼はこれを悔やんで、食べ物も喉を通らず語らなくなり、遂にその書を少林寺の神壇(神棚)の中に安置した。その(拳)法は硬功直進に優れている。」とあります。但し、この場合、趙匡胤本人が三十二勢を全て編み出したのではなく、編纂を命じたかシンボル名と考えるのが妥当かと思いますが、第三勢「探馬」は太祖自らが制定したと書かれています。
<中国・琉球武芸志、ウィキペディア参照>

『琉球伝・武備誌』エピソード⑤

この写真は福建省甫田市湄州島の媽祖像です。
媽祖が様々な霊験を現し、道教における最高神「天妃」「天后」「天上聖母」として崇められた経緯は前述しましたが、この話はそれで終わりません。媽祖信仰はその後も台湾・琉球・日本および南海地方など、広くアジア全域にも伝えられて2億人もの信徒がいるそうです。湄洲の媽祖もまた福建、浙江ないし台湾、東南アジアの媽祖廟の本部と言えるほどの、世界でも公認される「天后娘娘」の宮殿です。「天下の媽祖は湄洲にあり」と言われています。旧暦三月二十三日の媽祖の誕生日と九月九日の昇天の日には、どんなに遠くても海外の華人たちがきっと参拝に戻り、空前絶後の盛況は湄洲の地位を語ろうとしています。
ところで、この媽祖像は見方によって聖母マリア像に見えませんか?聖母マリアの被昇天とも考え合わせて、いくつかのHP記事を検索して整理してみました。
媽祖は琉球で「天妃宮」に祀られただけではなく、本土においても媽祖信仰は深く根付いています。媽祖は中国語で「ニャンマ(娘媽=母)」とも称されるそうですが、福建語(閩南語)で発音すると「ノモ」「ノマ」に近い音となるそうです。鹿児島の野間岬、長崎の野母半島などの地名は、それに由来するとされており、特に野間岬には、媽祖を神体とし、林氏が代々の神主をつとめてきた野間権現が存在しています。また、媽祖信仰は幾つかの信仰の複合体と考えられています。それまで曖昧な共通点を保ちつつ漂っていた各種の信仰が、中世のある時期に、南シナ大陸沿岸・東南アジア・日本・琉球をめぐる南海系の海上流通ネットワークを築いていた海洋民の手で、「媽祖信仰」として、一応の完成を見たと考えられます。
日本の海洋民が関与した要素については、以下の3点が挙げられます。
1.おなり神信仰(妹神信仰/オトタチバナ姫信仰/舟魂祭祀・信仰)
2.織女信仰(瀬織津姫/天照大神の信仰にも関与している)
3.白鳥信仰(道教・仙術・古代呪術エトセトラ…の系統。)
後に、長崎からの要素が強くなり、マリア観音など、マリア信仰・観音信仰とも複合したと言われています。西洋キリスト教のアジア進出の時代とも重なっていたので、香港・マカオ・長崎で共通して、「媽祖」と「マリア」との混合が不定形的に起こったという事が考えられます。

『琉球伝・武備志』エピソード④


今回は『天妃宮』にまつわる話です。天妃宮は航海安全の守護神である媽祖を祀っています。天妃とは皇帝から送られた媽祖の称号で中国や東南アジアの人々に今も信仰されており天后とも称されます。大交易時代の船出や進貢船などが出港前に航海の安全祈る場所でした。

琉球王府の時代は「上の天妃宮」「下の天妃宮」と二つありました。明治以降学校用地となり天妃宮は天尊廟地に遷されましたが戦火で焼失し、昭和50年に至聖廟等とともに若狭の天尊廟跡に復興されました。航海安全、交通安全、家庭平和、豊作祈願、商売繁盛を願う参拝者が今も多く訪れます。

媽祖は宋代に実在した官吏の娘、黙娘が神となったものであるとされています。黙娘は建隆元年(960年)、福建省・興化県(現在の甫田市)の官吏林愿の7女として、湄州島に生まれました。子どもの頃はほとんどしゃべらなかったので黙と呼ばれていたそうです。8歳で書を読み、13歳で秘法を得てよく土地の人々(漁師)を水難から救ったそうです。16歳の頃に神通力を得て村人の病を治すなどの奇跡を起こし『通賢霊女』と呼ばれ崇められました。しかし28歳の時に父が海難に遭い行方知れずとなり、これに悲嘆した黙娘は旅立ち、その後、峨嵋山の山頂で仙人に誘われ神となったという伝承が伝わっています。その後も霊験を現したので島の人々は廟を建てました。その後100年経ったときにも、その霊験はますます現れ、島のみならず甫田や仙游県の人々にも祀られて『媽祖神』と呼ばれました。南宋時代に入って高宋から『霊恵夫人』の称号を受け、その廟に『順済』という額を賜ってから急速に各地に廟が祀られました。元の時代に入って『夫人』から『天妃』の称号になり、明朝から清朝に至って『天上聖母』と崇められています。そして、福建省全体のみならず、琉球も冊封使が航海の神様としてその像を携えてきたときに、『天妃宮』が建てられ大切に祀られるようになりました。さて、ここからが琉球伝武備志との絡みが始まりますが、それは次回以降のお楽しみ。

『琉球伝・武備志』エピソード③

『天尊廟』について
『琉球伝・武備志』の来琉について複数説があるが、その起源について信憑性の高いものは、沖縄の至聖廟の中にある天尊廟からこの本が発見されたという起源です。天尊廟は、閩人三十六姓(3)が来琉した際に神像を捧持し、那覇若狭の波上に建立されました。天尊廟は現世の邪悪を絶滅して民を助ける『九天応元雷声普化天尊』という道教の神を祀ってあります。廟内は正面に天尊、向かって右側に関帝廟、左側に龍王殿が配されています。三体の神様が同居する理由は、もともと夫々の廟に祀られていたようでしたが、龍王殿が暴風雨で倒壊したので、三体合わせて天尊廟に祀ったと伝えられています。その廟は沖縄戦で焼失しましたが、昭和50年に再興しました。関帝廟は三国志で有名な義に生きた関羽が神格化されて祀られています。武神とされるばかりではなく、商人からは財神すなわち商売繁盛の神とされています。龍王殿は水や風雨を治める龍王を祀っています。琉球人や福建人にとって海上交易は生活の糧を得る命綱であり、航海の無事を祈念することは何より大切なことでした。
(3) 明の時代の初期に閩の国、今の福建省から洪武帝の命により琉球へ渡来したといわれています。彼等は中国と琉球を往来するための航海・造船等の技術を持ち、進貢に不可欠な外交文書の作成や通訳、交易を担い、琉球王国の繁栄を支えた職能集団です。1392年に琉球に初めてやって来たとされますが、その後三百年間にわたり中国福建からの渡来者や首里・那覇士族から迎え入れた人達も含めて久米三十六姓と称しています。居住区域は久米村(くにんだ)と呼ばれ、そこに暮らす人々は久米村人(くにんだんちゅ)と呼ばれました。(一般社団法人 久米崇聖会HP参照)
 
 ところで、ここに登場した『九天応元雷声普化天尊』とエピソード①②の『九天風火院三田都元帥』=『雷海青』との関係は当然気になる所です。『九天風火院三田都元帥』は、雷神第一位の『九天応元雷声普化天尊』にその位をあやかったのでは?というのが大塚師の説です。要するに雷繋がりです。「雷=靁」の字を分解すると「三田」です。窪先生もこれにはしばし沈思黙考・・・。歴史の浪漫です。

『琉球伝・武備志』エピソード②

『雷海青』について
雷海青は、唐代玄宗皇帝(685年~762年)に仕える楽人でした。安史の乱(755年)は唐の節度使の安禄山が起こした反乱です。反乱軍は一時都の長安を陥れ、唐は滅亡寸前になりましたが、安禄山が内紛で殺され、その仲間の史思明が反乱軍を指揮したので、「安史の乱」と呼ばれます。ウイグルなどの支援を得た唐が立ち直り、763年、反乱軍を鎮圧し、収束されました。乱の直接的原因は、唐の玄宗の寵愛を受けた楊貴妃とそのおいの楊国忠一族と対立した節度使安禄山が反乱を起こしたことでしたが、背景には唐の律令制度の行き詰まりという社会不安がありました。唐はその後も1世紀に渡って存続しますが、安史の乱以後は各地の節度使(藩鎮)が自立し、朝廷の力は弱体化しました。雷海青は、長安が陥落後、安禄山(705年~757年)に囚われ音楽を強要されましたが、楽器を投げ捨て長安の方向に向かって慟哭したため八つ裂きにされました。玄宗皇帝の子息が粛宗(711年~762年)となって安禄山を討ち果たした後に、粛宗皇帝は節に殉じた雷海青を太常侍卿に追封しました。時代を追うにつれて、道教的位が上げられ、遂には『九天風火院三田都元帥』となって、福建長楽県の氏神となりました。当初は芸能神であったのですが、『琉球伝・武備志』の中では武神として神格化されました。技芸上達の意味で祀った可能性もあったと思います。楽人が琴を持ったポーズと武神のポーズを重ね合わせると成程納得です。
(中国・琉球武芸史参照)

『琉球伝・武備志』エピソード①

先ずは、『沖縄伝・武備志』を『琉球伝・武備志』と改称された経緯について言及します。大塚忠彦師が『中国、琉球武芸史』(1998年7月30日刊行)の執筆中のことです。東京大学名誉教授・窪徳忠先生(1)に、『九天風火院三田都元帥』『雷海青』について監修を受けていました。窪先生宅への取材時に、窪先生から「中国文化の来琉を語るのであれば、沖縄本島以外の様々な諸島を含めた『琉球伝』とすべきではないか。」というご助言に従って『沖縄伝・武備志』を『琉球伝・武備志』と改称しました。私は取材時に師に同行し、直接そのやり取りを見聞しました。以降、本稿における名称は『琉球伝・武備志』とします。
(1)窪徳忠 先生(1937年~2010年)は、道教の研究を中心に、庚申信仰、「石敢當」等の沖縄の民俗など幅広く研究。著書は『道教と中國社會』等多数。日本における道教研究の第一人者。

大塚忠彦師の手形

大塚先生より賜った武備志の手形。
免許の日付は、師の還暦記念日に頂きました。「いつの日か、私の弟子が、世界中で武備志の技を披露するだろう。」とのお言葉を思い出します。

琉球伝武備志プロローグ

那覇手剛柔流の『琉球伝・武備志』(以下、茅元儀の『武備志』と区別する)剛柔流の秘伝書として上席師範からその高弟に、師の手形を押して伝授されました。(写真参照)私の頂いた『琉球伝・武備志』は、比嘉世幸本と呼ばれ、剛柔流開祖・宮城長順先生(初代)の高弟である比嘉世幸先生(第二代)から泉川寛喜先生(第三代・泉武会)の手に渡り、泉川先生により、剛柔流の本土普及に伴って川崎の地に入りました。泉川先生からは、高弟の市川素水先生(第四代・日本剛柔流空手道連盟会長)の手に渡り、東京は東上野の地に受け継がれます。さらに、市川先生から、高弟である大塚忠彦先生(第五代・剛柔拳舎砕心館 館長)の手に渡り、中央区の新富町の地にやって来ました。他にも伝承された高名な師範も数々いらっしゃいましたが、大塚先生の類まれな研究により、この書が広く世に知られることになりました。私こと廣岡和明(第六代・日本剛柔流空手道会一粒会 会主)が、我が師より、この『琉球伝・武備志』を賜った証がこの写真の手形になります。大塚忠彦先生が、『琉球伝・武備志』を手にした時から始まった研究の数々は、世界的な評価を受けて、今日では世界各地で翻訳本が出版されるに至っております。古い福建語混じりで書かれた漢文は、難解極まりなく、最初にその翻訳の先鞭をつけたのは、間違いなく大塚忠彦先生でした。その後、この本は様々な空手関係者によって歴史的・技術的な解釈も重ねられていきますが、依然として解明していない、いくつかの謎が残っています。
『琉球伝・武備志』は、剛柔流開祖の宮城長順先生が中国福建省で研鑽した際に、彼の地に伝わる拳譜を抜粋したものと思われますが、宮城長順本その物は戦災で焼失してしまいました。現存して伝承されたのは、それを書き写した比嘉世幸本(日本剛柔流空手道系に伝承)、摩文仁賢和本(糸東流系に伝承)、福地清幸本(沖縄剛泊会系に伝承)の三写本のみとなりました。また伝来については異説も多く、別ルートで首里手中興の祖糸洲安恒先生も所持していたとの説もあり、一流派のみに伝えられたものではありませんでした。そもそも諸流派が成立する以前のものでした。

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